「当日まで辞任を知らなかった」 第一次政権官房長官が綴った「安倍総理辞任の日」

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 8月28日、安倍晋三総理大臣が辞意を表明した。唐突という点では、前回と酷似していると言えるだろう。第1次政権の際も辞任はギリギリまで伏せられていた。何せ「女房役」であるはずの官房長官、与謝野馨さん(故人)も当日まで知らなかったというのだ。

 与謝野さんの著書『堂々たる政治』には、この時の顛末(てんまつ)が率直に綴られている。前回との共通点からは、安倍総理の性格が読み取れるかもしれない。以下、同書から引用してみよう。

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安倍総理辞任の顛末

 まず、あの日のことについて語っておきたい。

 安倍晋三総理大臣が突然の辞意表明をしたのは、2007(平成19)年9月12日のことだった。その日の顛末については、あらゆるメディアが語りつくした感もあるが、ここで私の知っている限りのことと、自らの考えを記しておこう。

 その後いろいろと言われたが、私は当日までそのことを知らなかった。それどころか、辞意は総理の4人の事務秘書官も知らされていなかった。安倍総理と政務秘書官、家族がいろいろ相談して決めたということである。

 言うまでもないが、総理大臣の進退なのだから、本来は限られた関係者にはきちんと周知して、相談をするのが筋であったと思う。あの日、総理が午後2時から記者会見をして辞意を表明するというのを聞いたときに、私はてっきり、辞めるにあたっては、自分の心境を語るちゃんとした文章があって、それに基づいて話をするのかと思っていた。ところが、聞いていても、なぜ辞めるのかがよくわからない会見になってしまった。そのときは、小沢一郎民主党代表との会談を断られたから、というのを第一に挙げていたが、誰が聞いてもおかしな話であった。

 実際には、その後ご本人が明らかにしたように、健康問題が第一の理由であったのはご承知の通りである。

 安倍氏の辞意表明会見の同日午後4時、私は官房長官としての定例記者会見を行った。ここで私は、辞任の理由として、健康状態の悪化を示唆した。

 実は「健康問題についても触れてほしい」と総理から会見直前に命ぜられていたのである。ここでようやく、実際には健康問題らしい、ということが何となく広まっていった。

 安倍総理の失敗の一つは、このとき自らきちんとした説明をしなかったことである。後になって、健康問題を理由とするのを潔(いさぎよ)しとしなかった旨のことをおっしゃっているし、心情としては理解できる。それでもやはり、一国の総理がその座を去る時には、きちんと国民にわかるように説明をしなくてはいけなかった。それも推敲に推敲を重ねた文章で、自分の置かれた立場、心境を明確に国民に伝えるべきだったのである。それが残念でならない。

 かつて金脈問題などで総理の座を辞することになった田中角栄氏は、辞意表明の声明で自身の心境について「沛然(はいぜん)として大地を打つ豪雨に心耳(しんじ)を澄ます思い」と語っている。普段は庶民的な語り口で知られる田中氏が、聞いたことのないような難しい言葉を使っていたことにびっくりした。

 後で聞いたところでは、実はこの文章は、政界ともかかわりが深かった陽明学者の安岡正篤(まさひろ)先生が起草したとのこと。それで納得した。

 もちろん、出来る限り自分の言葉で書くに越したことはないのだが、辞める時の心境というのは、真実をきちんと語ることのほかに、自分の考えを正確に伝えるということが大切である。その場で考えたような上っ面(つら)の言葉だけでは駄目なのだ。練りに練った文章で自分を表現する覚悟が必要である。何といっても、総理大臣の最後の挨拶は、後世まで残るものなのだ。

 病気で倒れそうだったことを思えば同情もするのだが、それでも安倍総理の辞意表明の言葉は安易すぎた。会見をした翌日には入院してしまったが、それではいくらなんでも国民に申し訳がない。

 だから私は、正式に内閣総辞職をする時の閣議には「とにかく這(は)ってでも来てください」と、総理に強くお願いした。担当医にも、「これはどうしても、どんなことがあっても来ていただかないと困る」と申し上げたのだ。

 また、「もう一度、できればきちんと自分の心境を伝える記者会見をやってください」とも進言した。安倍総理は、

「それについてはあらかじめ文章を用意しておいて、それを読み上げ、いくつかの質問を受ける形としたい」

 と言い、実行してくれた。総理は前日、病院で自分で文章を書いたという。このときの会見にもご批判はあろうかと思うが、それでも遅まきながら、やって良かったと思っている。

 もちろん、問題のある辞め方だったのは言うまでもない。私は今でも、7月29日の参議院選挙で自民党が負けた瞬間が、安倍総理の辞め時だったと思っている。

 参院選では投票前から惨敗は予想されていた。その場合、総理は辞任するのだろう、と私は思っていた。まさか自分が官房長官に指名されるなどとは思わずに。

 投票の4、5日前だったか、加藤紘一氏に会ったので、

「(1998〈平成10〉年7月の)橋本政権で参議院選挙に負けたときは、何時に橋本氏が辞めるのが決まりましたか」

 と聞いてみた。加藤氏は当時幹事長だった。

「まだ投票も終わってない、午後3時ごろには決まっていたよ」

 とのことだった。

 加藤氏によると、当日、各地の出口調査の様子を聞いてみると、自民党のボロ負けは目に見えていた。そこで加藤幹事長以下、党三役が集まって、どうするんだという話になった。結局「退陣しかないだろう」という結論になったので、野中広務氏(当時幹事長代理)に竹下登元総理のところに行ってもらい、橋本氏に話を通した。その結果、午後3時ごろには橋本総理退陣の流れはできていたのだという。

 まあ、今回もそんな段取りになるのかな、と私自身は思っていた。選挙に負けた責任が実質的に安倍氏にあると言い切れない部分もあるし、敗北の最大の原因は、たて続けに不祥事を起こした閣僚や党執行部にあると思う。それでも、大将たる者は結果に責任を持たなくてはならない。

 しかし結局、安倍総理は続投した。そして、9月のあの時点で辞めるぐらいなら、国会で所信表明演説をする前に辞めるべきだった。所信表明演説までした以上は、答弁中に倒れる覚悟でやらなければならなかったのだ。病人にそれを言うのは気の毒な状況だったのだが……。

消え入りそうな声

 所信表明演説の準備段階では、安倍総理が官邸に集めた秘書官たちと会議を開き、一言一句読みながら一生懸命検討していた。私もその作業には付き合ったものの、あまりに細かいチェックに、「総理の言葉なんだから、総理に任せておいていいんじゃないか」と内心思っていた。この時点では、辞任を予感させるものはなかった。

 びっくりしたのは、それから数日後の9月6日、安倍総理が所信表明前に官邸に各新聞社の論説委員を呼んで懇談した席での様子である。隣に座っている私にすら、安倍総理の声は聞き取れなかった。それほど弱々しい声だった。

 消え入りそうな声を聞いて、「変だな」とそのとき初めて思った。各社の論説委員も何か異変を感じたと思う。

 さらに辞意表明の2日前から、私が何か説明に行くと、「与謝野さんは大病から立ち直って……」と、妙に湿っぽい話をする。懸案のテロ対策特別措置法について「こういう方法でやってみましょう。何とか民主党にも通じるのではないかと思います」と報告しても、「官房長官はそう言われるけど、状況はもっと厳しいんですよね」と力なく言う。

 今になってみれば、この「状況」というのは実は自分の健康の話だったのかもしれない。しかし、私はそこまで体調が悪化していることには気付かなかった。さすがに辞意表明の前の晩は、私の政務秘書官の嶋田隆氏や友人と話をしていて、「総理はおかしいんじゃないか。ひょっとしたら……」という予感めいたものはあった。それでも確たる証拠は何もない。

 後に本人が語ったように、参院の所信表明演説で、翌年開催される北海道洞爺湖(とうやこ)サミットのくだりを読み飛ばしたことも大きかったのだろう。演説原稿はかなり大きな字で書いてあるもので、大事なところを読み飛ばすようなことはありえない。注意力が散漫になっていたのだ。総理はこれで限界を悟ったと後に語っている。

 辞意表明の翌13日、安倍氏は慶応大学病院で「機能性胃腸障害」と診断され、そのまま入院することとなった。

 ***

 安倍総理が辞意を表明したのは、与謝野さんが官房長官になってまだ3週間も経たない時だった。事前の相談もない唐突な辞任にはさぞや戸惑っただろうとも思われるが、著書の中で与謝野さんは恨み言めいたことは書いていない。与謝野さんによる安倍総理の人物評は以下の通りである。

「総理辞任の後の手記を読んでも、決して他人を責めるようなことをしていない点からわかる通り、性格が良く、非常に率直で、陰謀や策略を巡らすこともない。腹に一物(いちもつ)あるような人ではなく、非常に仕えがいのある人だった。こちらがやったことを率直に評価して下さるという意味で、私は『いい総理大臣だ』と思っていた」

 もちろん唐突な辞任を肯定していたはずもなく、与謝野さんは当時、メディアの取材に答えて、かなり厳しい内容も語っていた。しかし、そうしたインタビューについても、安倍総理からは「与謝野さん、インタビューを読みました。どうもありがとうございます」と電話で丁寧に礼を言われた、とも明かしている。

デイリー新潮編集部

2020年8月28日掲載

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