24歳の美智子さまが綴られた手紙──「私が愛し信用していただける日が来ますように。」

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 昭和34年4月10日、皇太子明仁親王と正田美智子さんの「ご成婚パレード」は、皇居二重橋から渋谷の東宮仮御所までおよそ8キロで行われた。6頭立て4頭引きの儀装馬車から手を振るお二人を祝おうと、沿道には60万人もの人々が集まったと伝えられる。テレビの受信契約数は前年の倍以上、23%を超え、1500万人が実況生中継に釘付けになった。

 60年前のあの日、民間から初めて天皇家に嫁いだ24歳の女性。その胸のうちは、いかばかりだったろうか。平成2年の紀子さま、同5年の雅子さまと続き、現在では「当たり前」となったが、以前は「お妃は旧皇族・旧華族から」という考え方が根強かった。戦前の「皇室典範」にはこうあった。

「皇族男子の妃は皇族または華族に限る」(39条)
 さらに「皇室親族令」では皇后について、「皇族または特に定むる華族」として「五摂家(ごせっけ)、九清華(せいが)、徳川宗家または公侯爵家(こうこうしゃくけ)」と範囲を絞り込んでいたのである。

 天皇陛下明仁親王の同級生・橋本明氏の著『美智子さまの恋文』は、昭和から平成へと移り変わる皇室の姿を克明に取材したノンフィクションだが、その中で、ご成婚の前後、美智子さまが明仁親王に宛て、したためていた手紙が紹介されている。橋本氏は元・共同通信記者。初等科から大学まで、学習院で明仁親王とともに学んだ。手紙は2通あり、昭和48年にある人物から橋本氏に託され、およそ半世紀にわたり秘蔵されていた。

“順応”ということばをまず“人の和”“自分への理解”へと置き変えていきたい

 1通はご成婚の直前、昭和34年の冬に書かれた。〈従来のもの、ありのままの姿を良く正しくみつめることから始めようと思います〉と皇室に対する自らの姿勢を記し始まる文章には、嫁ぐ前の不安と決意がない交ぜになっている(以下、引用は同書より)。

〈“順応する”ということを極端に恐れる傾向が一般には多うございますが、“順応”という言葉の中に“平和に暮らすこと”“自分の理解者を得る”ということがもし含まれておりますのならば“順応”なしに何事もはじめることは出来ないと考えます。
 静かに騒がれずに、一つの自分の席をつくりたい、そしてその小さな座に一度すっぽりと自分を座らせなければいけないと思います〉

 文章は、「順応ということばを“人の和”“自分への理解”へと置き変えていきたい」と続く。さらにそれを“愛”と“信用”に発展させていき、自らの「足場」としたいと決意を述べる。「崩れていく砂山」を「足場」にしたのでは、何ひとつ実らない、それは「家」だけでなく「職場」「社会」においても同様ではないでしょうかと、美智子さまは切々と説くのである。

 一方、「伝統と進歩」については自ら「課題」と前置きした上で、美智子さまは次のように筆を進める。「伝統は学び消化し、自分の血肉としたい」、そしてこう記すのだ。

〈普通の家庭でも、時代の過ぎゆきにしたがって変化は大変に沢山ございます。それが“進歩”と呼べず“変化”としか呼べないものかも存じませんが、ただそれは徐々に来るもので、急激にやって来ることは戦争などという例外的な状態を間にはさむ場合などを除き、そうございませんので、知らぬうちに時が経過し、父が、または兄が弟を見、ほう、時代も変わったものだ、というような形をとっております〉

 この書簡の中で美智子さまは「女なので」という表現をたびたび使っているのだが、ここでも、その視線を大切にしている。

〈望ましいのは秩序のある進歩だと思いますが、時には――ひどく必要の時には――それが、“革命的”な姿をとらなければ全体のために困ることもございましょう。ただ女は、そのような時にも、その変化のために傷ついてしまう方たちのことを考えずにはいられなく造られてしまったのだと思います〉

 手紙は200字詰め原稿用紙にして63枚に及ぶ。稿を改めて、美智子さまは次のように決意を綴り、いったん筆を擱く。

〈女らしい心から出たさまざまな工夫をもって、本当に平和に皆が愛しあって暮らし、そのうえでなお進むべきところは徐々に、目に見えず進んでいきますように。私が愛し信用していただける日が来ますように。それからどんな時にも焦(あせ)らず、待てますように〉

私に一番ふさわしいお仕事──

 そして自らの役割について、こう結ぶのである。60年前、そのようなお考えだったのかと知り、心が震えるのではないだろうか。

〈私に一番ふさわしいお仕事は、二、三の積極的なことを除き、むしろ見た目には消極的に映る“飛び石”のお役目を果たすことなのではないかということでございました。次の時代に来る子どもたちが、私たちの見守る中でおおらかに新風を吹きたたせられるための、私たちは準備期間としてあってもよいのではございませんか〉

 2通目の手紙はご懐妊中の昭和35年1月の日付。明仁親王が志賀高原にスキーにお出ましの留守中にひとり筆をとった。生まれてくる「赤ちゃん」について思いを馳せた後、「子どもにお父さんのお仕事をどう説明するか」、つまり将来、皇室を担っていく皇子たちに「天皇」という立ち場をどう教えるか、明仁親王に宛て、気持ちを伝えていた。

〈社会はいろいろの職場を大勢の人が分担して成り立っていることを、そして○○のお父さまの職場は、何かそういう人たちを一つの共通点で結ぶところ、皆に安心して憩(いこ)える場所を提供するところだということを、そしてそのお仕事は、社会の出来るだけすみずみの陽の当たらぬ場所も知り、この日本という国のいまのありさま、また、そこに起こるさまざまな出来事について皆と心をあわせて喜び、悲しみ、そして励ましていくという、大切なお役目なのだということを話さなくてはと考えました〉

 この2通目の手紙では、「家族はどんなに幸福であってもいい」「温かい家庭をお作りしたい」といった家族についての記述が目立つ。そして人の「幸福とは何か」に、美智子さまの思いは及ぶのだった。

〈自分一人を犠牲にして、他の人の幸せを図る人を私は驚嘆して見ますが、自分もしあわせに満ち、それが自然周囲も潤(うるお)しているような人を見るのは、それ以上の喜びでございます。(もっとも前者のケースで、犠牲を払っている人自身、本当に幸福感に満ちていることがございます。Love is sacrifice.の真の意味を踏まえて。)〉

 そして手紙はこう結ばれていた。

〈これからの生活に、犠牲が求められるのはもちろんのことと思います。それを逃げて苦労のない生活がいいというのでは決してなく、ただ何か私は、それを逆側からも見ておきたい、また見なければいけないような気がしてなりません〉

 私たちは、このような素晴らしい皇后陛下を戴いていたのである。

デイリー新潮編集部

2019年4月28日号掲載

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