【平成最凶の事件簿1】幼女4人を殺害した「宮崎勤」の猟奇的な「性癖と心の闇」

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 畠山鈴香、宮崎勤、宅間守、元少年(光市母子殺害事件)、金川真大、加藤智大、小林薫ら殺人犯と臨床心理士によるとの直接対話。

 これまで決して明かされなかった閉ざされし幼少期の記憶や凄絶な家庭環境が浮かび上がる。

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 平成最凶の事件は何かと聞かれたら、この事件を思い出す人も多いのではないだろうか。

 約30年前、昭和から平成へと時代が替わるとき、二つの元号を跨ぐ形で進行していたのが、「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」である。その意味では昭和最後の、そして平成最初の凶悪犯罪と言えるだろう。

 昭和63年8月から平成元年の6月までに、4~7歳の女児を車に誘い入れては絞殺していた、鬼畜の所業である。殺された幼女は4人。遺体の一部が入った段ボール箱が被害者宅の玄関前で見つかったり、「今田勇子」名の犯行声明文が新聞社や被害者宅に郵送されたりと、日本犯罪史上、比類ない異様さと残忍性が際立った事件だった。

 昭和最後の数カ月、連日、天皇陛下の病状が報道される中、不気味な続報に世の中は戦慄した。犯人・宮崎勤は当時26歳。家業の印刷業を手伝っていた。
 
 臨床心理士として数多くの刑事事件の心理鑑定を手掛けてきた長谷川博一氏が、10人の殺人者とやりとりし、事件の真相、犯人たちの「心の闇」に肉薄した著書『殺人者はいかに誕生したか』には、宮崎勤が「異様である」ことを感じさせるやりとりが綴られている。以下、同書を引用しながら、長谷川氏と宮崎の会話をいくつか紹介しよう。

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 それまですべての面会を拒否していた宮崎からの依頼を受けて、長谷川氏が面会に出向いたのは逮捕から18年後の1月だった。

〈私の中で描いていた宮崎勤は、逮捕後の実況見分に立ち会っているときの姿です。当時、盛んに報道され、今でもインターネットで見ることができる、あの顔と姿でした。しかし実際に会うことで、それはもはや過去の遺物であり、今はそうではないのだという不思議な感覚を味わいました。ひどく痩(や)せ、頬はこけ、血色は悪く、肌は乾燥気味にあれ、髪の毛も幾分薄くなっていました〉

「私は優しい人間だと、伝えてください」

 この面会の翌日、最高裁で宮崎に死刑判決が下される。再び面会し、そう伝えた長谷川氏に、宮崎は「何かの間違い」だと淡々と答えたという。

〈(長谷川氏が)「社会に伝えてほしいことはある?」と尋ねると、
「本当は、私は優しい人間だと、伝えてほしい」
 私は多少の衝撃を受けました。
「優しさ」とは対極にある「残酷さ」「猟奇性」が、紛れもなく彼が行ったことです。内面世界と現実がこれほど乖離(かいり)しているとは……〉

 その後も含め、長谷川氏は都合8回、面会を行った。以下は女児殺害についての、長谷川氏との一問一答である。

〈「私はやってない」
 「誰がやったの?」
 「ネズミ人間か、もう一人の自分」
 「どうしてわかるの?」
 「黒い中に明るいスポットが現れて、その中でネズミ人間か、もう一人の自分が殺害行為をしている」
 「それを見ていたの?」
 「見るのは嫌。無理やり見せられて、怖い」〉

 宮崎が逮捕され、その部屋が6千本のビデオテープとマンガ・雑誌で溢れ返っていたことも、世間を驚かせた。「おたく=異常」という偏見もここから広がっていったのである。「小児性愛」「死体性愛」、さらには「人肉嗜食(ししょく)(カニバリズム)」を指摘する声もあがった。

〈「性犯罪と考えられているけど?」
 「勘違いされた」
 「ビデオに映っていると言われているが?」
 「興奮して息をしている音はある。私の性器は映っていない」
 「射精はしていない?」
 「ない」
 「射精の経験はある?」
 「ない」〉

 平成20年6月、東京拘置所で、宮崎は死刑を執行されている。

デイリー新潮編集部

2019年3月14日掲載

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