〈震災から8年〉1日でも早く家族の元へ… 数え切れない数の身元不明のご遺体を検死した歯科医が語る

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 東日本大震災から今年で8年が経過する。未だあの日の記憶を鮮明に覚えている方は多いだろう。M9という観測史上最大の地震に加え、私たちの想像をはるかに超える大津波。死者、行方不明者合わせて1万8千人を超える未曾有の被害をもたらした大震災だが、そこでは多くの人々が「生きる」ために奮闘したことも忘れてはいけないだろう。

 宮城県歯科医師会身元確認班の班長の江澤庸博さん。身元不明のご遺体の歯から正確な情報を読み取り、1日でも早く家族の元へと返そうと務めた。数え切れない数の検死を行った江澤さんは、何を感じたのか――。(以下「 」内、『救命東日本大震災、医師たちの奮闘』(海堂尊監修)より引用。※肩書・役職・年齢等は2011年の取材時のものです)

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「これまで何体のご遺体を検死したか、その数字を私には明言することが出来ません。次から次へと運ばれてくるご遺体を検死することにずっと集中していて、初めの日、夜の八時ごろになって、県警鑑識課の方々と相談しながら『きょうはこの辺で』ということになって、初めて手が止まりました」

 身元不明の検死には、歯科の所見が欠かせない。宮城県歯科医師会身元確認班の班長を務める江澤さんは、この未曾有(みぞう)の大災害に身元確認班の実質上の責任者になった。

「遺体の収容人数が一日で最も多かったのは災害から数日ほど経過した頃です。一日で千体以上ものご遺体が検案所(遺体安置所)に運ばれました。大震災から二ヶ月過ぎた五月十日現在で、宮城県での遺体収容数は約八千八百五十遺体で、そのうち身元が判明したのは約七千六百件です。身元不明遺体は千二百体にものぼりました。

 長年検視を担当してきたベテランの伊東哲男宮城県警鑑識課機動鑑識隊長も『自分が一生で見た遺体より、一日で見た遺体の方が多かった』と呟(つぶや)いていたくらいです。

 このご遺体の歯から正確な情報を採り、一日も早く、ご家族にお返しするのが我々歯科医の務めです」(中略)

閉ざされた子どもたちの未来

 江澤さんたちは、検案所となった利府(りふ)町のグランディ21で遺体の検死にあたった。

「初日は私もまさかあれほどのご遺体が運びこまれて来るなんて想定していないから、一人ひとりの口腔内写真を撮っていたんですけど、振り向くと遺体だらけで、こんなことをやっている暇は無いと、撮影はすぐやめました。数日後に応援に来て頂いた法医の先生方は皆さん『写真は撮らないんですか』とか『X線は撮らないんですか』と言ってくるけど、そんな暇は無い。そんなこんなでこの時期の朝、県警のロビーは喧騒(けんそう)状態でした」(中略)

 日本各地から応援に駆けつけた医師たち。しかし応援に来てくれた医師は、必ずしも検死の経験がある人ばかりではなかったという。

「職業意識で表情は平静を装(よそお)っていても、涙を堪えている人や、手足を震わせている人もいました。(中略)

 そんななかで一番辛かったのは、石巻の大川小学校の児童の検死に当たった先生方かも知れません。北上川のほとりに建つ大川小学校は、全児童百八人のうち、津波で七十四人が死亡・行方不明になりました。

 検死するものにとって、乳歯とか混合歯列って本当にきついし、切ないです。遺体に名札を着けたままだったり、傍に置かれた遺品のランドセルには教科書などが入っていて、この子は逃げようとしている最中に波に飲まれたんだなと想像してしまう。子どもの遺体は何故(なぜ)か外傷が少なくて、『起きて』といえば、すぐにでも起きそうな綺麗(きれい)な顔をしていることが多くあります。そんな可愛(かわい)い子ども達の未来が、突然閉ざされてしまった。

 仕事とはいえ、ここで検死に当たった先生方は本当に辛かったと思います」(中略)

 未曾有の大震災。身元不明のご遺体の歯から正確な情報を読み取り、1日でも早く家族の元へと返そうと務めた江澤さんは、その経験経て以下のように語る。

「身元不明者が一人でもいるという現実が許せないから、最後の一人まで判明させたいと思っています。だって、その人にも人生を歩んできた歴史があるんですよ。身元不明のままだったら、この世に生きたという証(あかし)がどこにもなくなるじゃないですか」(中略)

 江澤歯科医師らは、今回の大震災で多くの体験をした。首都圏直下型地震、東南海地震など大災害が予想される今後、彼らの経験を活用することこそ、人類の知恵というものだろう。

デイリー新潮編集部

2019年3月11日掲載

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