灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(30)

国際Foresight 2019年2月10日掲載

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「松竹」傘下の元、関西で地固めをする劇団「新国劇」の一員として義江は日々活動するも、歌劇をやってみたいという野心が抑えられないでいた。

「旭硝子」での会社員時代と同じように、誰にも言わず大阪を旅立つことにした。

 義江の悪い癖を叱ってくれる者など誰もいない。

 自分を拾ってくれた座長・沢田正二郎に挨拶もしないで「ドロン」するのは、芝居道に最も反することだというのはよく分かっていたが、沢田に直訴する勇気などない。

 礼を欠く以上のだらしなさと言われても仕方ないが、これからもこの世界で生きていく最低限の礼儀として、2日がかりで書いた手紙を沢田の鏡台の前にそっと置いて新国劇を去った。

「ちっ、しょうがねえな」

 手紙を読んだ沢田はつぶやいたが、それで大部屋俳優・戸山英二郎のことは忘れた。

 100人を超えるほどに膨れ上がった劇団俳優の辞める話などは日常茶飯事だ。

「やめてくれた方が、おまんまの食い上げに助かるってもんよ」

 舞台を水浸しにする「深川音頭」で大阪人の度肝を抜いた沢田は、新国劇の「売り」を見つけ初めていた。それは舞台を縦横無人に、時には客席へも駆け回るチャンバラ劇、「剣劇」だった。歌舞伎にはない早い立ち回りと息を飲む展開。乱闘劇となれば劇団員も総動員となり、観客は目を見張る。

 そして松竹の白井松次郎社長が連れてきた座付き劇作家の行友李風(ゆきともりふう)が書き下ろした『月形半平太』と『国定忠治』が空前の人気となり、新国劇の定番となる。『月形半平太』は幕末維新を題材にした初の作品となり、『国定忠治』の「赤城の山も今宵限り」のセリフは大流行となった。

 そして「チャンバラスター沢正(さわしょう)」「剣劇の新国劇」は一時代を築いて行く。この後、栄枯盛衰をくりかえしながら70年も存続し、緒方拳などの名優も輩出した。

 チャンバラ路線を前にドロンしてしまった義江はチョン髷を結うにはあまりにもバタ臭い顔を出さずにホッっとした。かどうか分からないが、自分の顔にふさわしい夢を手にするため、東京・浅草に向かうのであった。

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 一度黄色い声援を浴びた経験のある者は、その世界から足を洗うのは難しい。

 京都・大阪では、少しは自分の顔が知られているかもしれないと、神戸駅ではなく兵庫駅からわざわざ下を向いて汽車に乗った。しかし、それが反対の下関行きの列車だったことは、義江の無計画さや物事にあまり拘泥しない性格を物語っていた。

 大正7(1918)年、義江は東京・浅草の地を踏んだ。

 浅草は変貌を遂げていた別天地だった。

 六区には、雨後の筍のように新しい劇場が建設されている。西洋風の建物の前には額縁を見立てた巨大な看板と、役者の名前が書かれたノボリがひしめく。そこは今や「浅草オペラ」の聖地として、若い男性を中心とした客が連日足を運ぶ場所と化していた。

 もっとも「浅草オペラ」と名がついたのはブームが去った後のことで、当時としては「オペラ」といえば浅草だった。

 大正の中盤、突如浅草にオペラが登場する経緯を振り返ってみよう。

 さかのぼること明治44(1911)年、日本初の全席に椅子が完備された帝国劇場が誕生した。

「日本も諸外国と肩を並べられるよう、西洋の芝居(オペラ)をやるべきだ。それには地べたに座る小屋の様な劇場では、まことにふつりあいだ」

 と声を上げたのは内閣総理大臣・西園寺公望だった。西園寺はフランス留学時代、勇気を持ってあちらの女性にも触れ、そこから文化も教わってきた。

 しかし明治政府は富国強兵に忙しく文化的なものにお金をかける余裕などなく、渋沢栄一、大倉喜八郎、益田孝などの民間の財閥が大株主となって、日本初のオペラ座の建設および運営が行われることになった。

 竣工に先立ち、管弦楽団・歌劇部の募集とオーディションが行われた。

 上野音楽学校の卒業生や教師など関係者が数多く、オペラに加わることになる。

「帝国劇場」としてスタートしたものの、見たことも聞いたこともないヨーロッパの伝統芸能「オペラ」など理解されることは難しく、楽団が舞台前のボックスで演奏をしていると、指揮者に向かって、

「邪魔だー。見えんぞ」

「客に尻を向けるのは失敬だぞ」

 というヤジが飛ぶ始末だった。

「『今日は帝劇、明日は三越』と言われたくらいブルジョア階級で最も教養のある人たちでさえこの始末」だったそうだ。

 大正2(1913)年、ちょうど帝劇歌劇2期生募集の頃、

「歌舞伎に日本舞踊の基礎訓練が必要なように、オペラにはダンスの基礎が必要である」

 帝劇の山本久三郎専務取締役は、ロンドンで軽歌劇の舞台監督や舞踊振付をしていたイタリア人ジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシーを日本の帝劇の専任教師として招聘した。  

 歌劇部員の月給は弁当代と合わせて55円。トップの給与取りは教師と出演も兼ねているソプラノ歌手「三浦環」で、月に1500円。それは当時の総理大臣と肩を並べる額だった。

 来日した振付師ローシーは、帝劇の部員のレベルに愕然とする。

「これでは伝統的なグランドオペラなど無理だ。せめてオペレッタやオペラコミック(喜歌劇)にすべきだ」

 軽快な歌にダンスにセリフの『蝶々夫人』や『天国と地獄』『古城の鐘』『ブン大将』『ボッカチオ』などは上々の公演となった。しかし歌劇は一部の音楽ファンにしか広まらず、ローシーの契約期限が来たところで解散となる。オペラ常設を目指して作られた帝劇は、金のかかるオペラを早々に見放した。

 行き場を失った部員たちは、ローシー夫妻の赤坂の自宅で練習に励むしかなく、途中ではしごを外されたローシーにも歌劇に対する意地がある。いままでの帝劇からの莫大な報酬をつぎ込み、赤坂見附の弁慶橋手前にある活動写真小屋「万歳館」を買い取り改造、専用オペラ小劇場「ローヤル館」を設立する。帝劇歌劇部解散からわずか4カ月後の大正5(1916)年9月の終わりだった。

 こけら落としの演目は『天国と地獄』。各国の大公使が夫妻で来場。弁慶橋が架かる外濠の前には色とりどりの馬車が並び、まさにヨーロッパのそれを思い出させる華麗な雰囲気だった。

 しかし看板のイルミネーションは禁止、赤坂警察署の指導により新設の劇場は認められなかったので、「寄席」扱いでオペレッタの前に必ず講談などの前座をつけなければならなかった。

 余談だが、そのローヤル館は偶然にもちょうど現在筆者が住んでいる場所で、

「うちのおばあさんが昔ここにオペラハウスがあって行ったという話をしていた」という近所の人の話は、何度か聞いたことがある。そくらい、妙テケレンなオペラというものは印象を残した。

 ある日、ローヤル館のローシー一座のテストを受けに来た、坊主頭に紺かすりに小倉の袴の少年がいた。

 後に宝塚歌劇団に迎えられる音楽家の竹内平吉がピアノを弾く。

「では田谷君、『恋はやさし野辺の花よ』を唄ってください」

 オペレッタ『ボッカチオ』の劇中歌で人気となり、むしろ日本の歌謡曲として流行していた歌だ。

「はい。恋~はや~さし~野辺~のはなよ~♪」

すると隣の練習場にいたローシーが飛んできて、

「オー・ブラボー・! ニッポンイチバン!テノール・グッドボーイ!」

 少年を抱きかかえた。

 田谷力三、このとき19歳。東京神田の生まれで、三越少年音楽隊出身の美声に、長身、紅顔の美少年である。

 こうして田谷はローシー一座のテノールとなる。この直後、ローシー一座が大阪での公演の際、田谷の歌を聞いて触発された義江は上京してくるのだ。

 ローシーの厳しい指導は一座の反感を買っていた。

 有名な話では、六尺棒で足を叩く指導のため、「おれたちゃ、馬じゃない!」と団員が飛び出てしまった。

 プリマドンナ原信子の脱退、バリトン歌手の清水金太郎夫妻の脱退などで運営が厳しくなっていく。

 それだけではない。ローヤル館は大名屋敷の多い赤坂見附、その先には紀尾井の森が立ちはだかる立地条件だっただけに、客の往来が少ない。そして入場料も高い。それを指摘されると、

「オペラを見たい人は今の料金でも来る。見ない人は値下げしても来ない。1人も来なくても私が見ているからみんなは心配しないで舞台を一生懸命やればよいのだ」

 ローシーは譲らない。毎月25日間の興業で入りのあるのは初めの1週間。あとはひと晩20人30人が精一杯だった。

 結局、日本オペラの芽を育てようと今の価値で何億もの有り金を投入したローシーは無一文となり、渡航費さえなく、帝劇からの情けの餞別でひっそりと日本を去る。

 がらんどうのローヤル館稽古場は凍てつくような寒さ。2人のテノール歌手、田谷力三と堀田金星だけが見送りをした。

 ローシーは涙を流しながら田谷の肩に自分の着古したチョッキをそっとかけた。大正7(1918)年2月25日のことだった。

 爾来、二度と日本の土を踏むことはなかった。

「ローシーほど日本にいた時は憎まれ、去ってからは尊敬される人はいない」

 と言われている。

 ローシーがまいた種は風にのり、浅草の地に舞い降りて芽が出始める。

 当時の日本で最大の歓楽街・浅草は、活動写真、大衆演劇、寄席、相撲など、花盛りだった。

 その浅草に「オペラ」というものが紛れ込んできた経緯には諸説あるが、欧米帰りのダンサー高木徳子が浅草の「常盤座」で『女軍出征』を主演したことが、浅草オペラの始まりと言われる。『女軍出征』はフランス軍が男性兵士不足で女性が戦争に行くという歌劇だ。これが浅草で大いに当たった。

 明治の終わりから欧米のエンターテイメントを目指し、夫と日本を後にした高木徳子は、大正のはじめ第1次世界大戦のためやむなく日本に帰国した。日本初公演はローシー率いる帝国劇場の演目『幻夢的バレエ』。閉店後の三越百貨店おもちゃ売場、夜ごと人形たちが起き上がり繰り広げられる物語だ。

 トウシューズで踊る本格的バレエは、高木が日本で初めて披露したことにより「トウダンサー高木徳子」は話題になり、浅草の歌劇仕立ての『女軍出征』の中で披露したことで、「トウダンサー」と「オペラ」が庶民の間に一気に広がった。

 そしてその年に「三友館」(浅草演芸ホール)に「東京少女歌劇団」(旭歌劇団から改名)が結成されたことで、一気に人が集まるようになる。目ざとい興業師たちは「日本館」に「東京歌劇座」、「金龍館」に「根岸大歌劇団」を誕生させ、少女グループを中心としたオペラ風ミュージカルが誕生する。

 ローシーが見たら「コレハ、オペラデハ、アリマセン」と悲鳴をあげたに違いない内容だが、大衆の心を掴んだのは、「日本風似非オペラ」の方だった。

 集団で歌って踊る若い女性の魅力は、いつの時代も絶大だ。

 あたかも、平成の中盤、秋葉原の劇場に歌とダンスをする『AKB48』という少女グループとそれを応援する男性たちが出現したことに似ている。根城の小屋があること、「ファン」は「ペラゴロ」(オペラのゴロツキ又はオペラのジゴロ)と言われその距離は近い、「推しメン」を競って応援すること、ブロマイドなどの写真を売る「物販」をすることなど、80年以上も前に類似する熱狂が浅草にもあった。

 オペラといっても、1つの演目を最初から最後まで演る「グランドオペラ」は帝劇での失敗から少なく、様々な演目からサビを抜き出して繋いだり、オリジナル・オペレッタを上演した。若手作家の秀逸なものから全く意味不明でめちゃくちゃな出し物まであったが、すべてを称して「オペラ」と呼び、大衆に向けて大きく花咲いた。

 何でもありの、西洋人が見たら腰を抜かすような和洋折衷の浅草オペラだったが、意外な方向に舵はきられた。

「三友館」の「東京少女歌劇団」は、阪急電鉄の創業者小林一三が創設した「宝塚少女歌劇団」を意識してつけられた名前だ。

 しかし西の宝塚と比べるのは失礼なほどレベルは低く、まともな歌手や踊り手は数人。他の少女たちは顔や見た目はよいが、まるで隣のお姉ちゃんをひょいと借りてきたくらいの素人ぶりだった。

 が、そこが爆発的に受けに受けた。

 肌の露出の多い衣装で脚はあらわの少女たちが全員揃うラインダンスに、客は狂喜乱舞した。

 そして義江は、その「東京少女歌劇団」の面接に臨むことになるのである。(つづく)

佐野美和
政治キャスター。東京都八王子市出身。株式会社チェリーブロッサムインターナショナル代表取締役。大学在学中、フジテレビの深夜番組として知られる『オールナイトフジ』のレギュラーメンバー「オールナイターズ」の一員として活躍した。1992年度ミス日本に選ばれる。TBSラジオのパーソナリティ、TBSラジオショッピングの放送作家を経て、1995年から2001年まで八王子市議会議員として活動。以後はタレントとしてテレビ出演のほか、講演会も精力的に行う。政治キャスターとしてこれまで600人以上の国会議員にインタビューしている。主な書籍に『アタシ出るんです!』(KSS出版)、『あきれたふざけた地方議員にダマされない!』(牧野出版)などがある。