生誕90年「手塚治虫」秘話――“マンガの神様”が号泣した日

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人生最大の挫折

 手塚は、マンガの神様であると同時に、「テレビアニメの生みの親」でもあった。もともと、ディズニー映画の熱烈なファンで、本格的なアニメ制作を夢見ていた手塚は、昭和36(1961)年、念願のアニメーションスタジオ「虫プロダクション」を設立。昭和38年1月には、日本最初の本格的テレビアニメ「鉄腕アトム」を世に送り出し、大ブームを巻き起こした。

 しかし、週1回の放映に追いまくられる虫プロの制作現場は過酷を極めた。「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」などの脚本を手がけた辻真先は、いくつかの「悲劇」を回想する。

「月に残業200時間、300時間はザラだったでしょうね。経理を担当していた男性社員は、打ち合わせをした後、みんなでラーメンを食べている最中にばったり倒れてそのまま亡くなった。くも膜下出血でした。

 虫プロで職場結婚をしたアニメーターのご夫婦は、子供が生まれても共働きで、帰宅すると、赤ちゃんを真ん中にして寝ていた。ところがある日、赤ちゃんがベッドの隙間に落ちて、首吊りのようになってしまった。でも2人ともあまりに疲れて熟睡していたので気づかず、赤ちゃんは亡くなってしまったんです。お葬式には手塚先生も来ていましたが、人目も憚らず号泣していました」

 常にベストを極めようとする手塚の完璧主義も、現場を混乱させた。虫プロの社員で、その後の社長となった伊藤叡は語る。

「『鉄腕アトム』にしても、先生がこだわってぎりぎりまで手直しするので、放映に問に合わないことがありました。全208回の放送でしたが実際は193話しかなく、15回は再放送だったんです。放映に間に合わないなんて、今だったらテレビ局から出入り禁止になってますよ」

「気に入らないと、土壇場で作り直してしまう。長編映画の『クレオパトラ』が公開された時、初日と千秋楽で内容が変わっていたのにはたまげました」(辻真先)

 こうした採算を度外視した制作手法が、プロダクションの経営を悪化させることは確かである。昭和48(1973)年、4億円の負債を抱えて虫プロは倒産した。

 この時、虫プロの債務処理を請け負った、長年の友人の葛西健蔵(元アップリカ葛西代表)は、失意の手塚を間近に見ていた。

「人生最大の挫折だったでしょうね。暗い顔して僕に、『台湾に逃げようと思う』なんて大まじめに言っていた。僕が債権者の前で土下座をしていた時も、とにかく金を返さなくてはいけないと、隣のビルでひたすらアンガを描き続けていたほどです」

 この倒産劇で、アニメ制作から手を引くかと思いきや、手塚は以後も並々ならぬ情熱を傾けて、アニメに関わり続けた。そして、作品への異常とも言えるこだわりも健在だった。

「日本テレビの『24時間テレビ』で放映されたアニメスペシャルで、僕が監督、先生は原作・構成という担当で一緒に仕事をした時、先生は、放送前日まで修正要求の電話をかけてくる。でも、先生の指示を聞いていたら放送に間に合わない。全部、生返事で返すしかありませんでした。

 その後、私はもう一度先生と仕事をしましたが、『手塚さんと2度仕事をする奴はバカだ』と言われた」(アニメプロダクション「マジックバス」社長・出崎哲)

「もう一度担当に」

 頭の中は24時間、仕事のことでいっぱい。ほとんど私生活というものがなかったように思える手塚だが、3人の子供には子煩悩な父親だった。

「夏休みには家族旅行、父の誕生日には必ず食事に行っていました。願いごとや相談ごともきちんと聞いてくれたし、『いま仕事中だから後にしてくれ』と言われた覚えもない。とにかく怒られたことが一度もないんです」(手塚るみ子)

 前出の松岡博治は、手塚が仕事場で涙を流している姿に出くわして驚いたことがある。

「長男の眞さんがある大学に落ちてしまい、『眞がかわいそうだ』と泣いていたんです」

「マンガの神様」が没して早20年。歳月の経過は、昔の恩讐を懐かしい思い出に変える。

「うちの原稿はいつも一番最後でね、僕は『土壇場の黒』と言われて、常に崖っぷちだった。それでも、先生と一つの時代を共有したことは、自分の人生で大きな財産になっている。自分の中では、今も先生が生きているんです。できれば、もう一度先生の担当になりたいと思いますよ」(黒川拓二)

「手塚の前に手塚なく、手塚の後に手塚なし」と言うのは、小学館専務取締役の白井勝也。

「浦沢直樹は『鉄腕アトム』の中の『地上最大のロボット』をモチーフにして『PLUTO』(プルートウ)を描き、佐藤秀峰は『ブラック・ジャック』に想像力を刺激されて『ブラックジャックによろしく』を描いている。現役の大作家がこぞってオマージュを捧げる手塚治虫という存在に、先生を直接知らない若い世代のマンガ家も畏敬の念を抱いている。それだけ偉大な存在なのです」

 60歳でこの世を去った手塚は、意識が朦朧とする中で、最期まで「仕事をさせてくれ」と譫言を言い続けていたという。(文中敬称略)

週刊新潮WEB取材班

2018年11月20日掲載

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