灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(15)

国際Foresight 2018年10月28日掲載

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第2章 我らのテナー

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 藤原義江は晩年に、

「自分の人生を振り返ると、恋愛と借金を繰り返し、その間歌も歌った。この一行が僕の人生だった」

 と書いたことがある。

「我らのテナー」と呼ばれ日本中を席巻し、日本と外国を行き来しながら歌を唄い、観客の胸に突き刺さるステージを数々開いた。日本の社交界の中でも中心的な存在で、義江がその場にいるだけで会の格式が上がり華やいだ。日本で初めて本格的なオペラを上演するための「藤原歌劇団」を設立し、生涯、本格的オペラの普及に努めた。

 帝国ホテルに住まい、その生き方は多くの人から羨望された。

 死後何年たっても方々で語り継がれる「藤原義江」は、輝かしい表舞台とは裏腹に、複雑に入り込む「女性関係」と、「お金」に悩む人生でもあった。

 自伝などでは、自らの出生を雄弁に語っているが、実際の対面では過去を振り返り語ることは一切しなかったという義江の出生から紐解いていこう。

 女性たちの気持ちをかき乱した容貌と歌声、男性たちを引きつけた生き様の男は、明治31(1898)年大阪で生まれた。

 と戸籍には記されてあるが、当時の出生届などは正確ではなく、大人になってからも「3、4年は遅れて母親が出生届を出したのでは」と周囲から言われてきた。なんでも、同級生より頭ひとつでかいとか、大人びた考えをする少年だと言われてきた。

 これに義江は、外国の血が交じる混血であるし、あれだけ流転する生活で無理にも世間を見せつけられた少年が子供らしくいられるわけがないと反論する。

 もう1つ言うなら、明治37(1904)年の日露戦争をおぼろげにしか知らないことだ。あの戦争の旗行列や提灯行列はうっすら記憶にあるくらいのものだ。だから、その当時に5歳だか6歳だというのはまちがいのないことなのだと義江は言いたかったようだ。

 スコットランドからやって来たビジネスマンと、琵琶芸者の間の子供。父母はその頃住んでいた山口県下関市で出会った。

 誕生日は3つあり、戸籍では12月5日となっているが、ある人は7月13日生まれだと言う。しかし義江のものと思われる「へその緒」には8月21日と書いてあったので、この日が本当の生まれた日なのだと、義江が70歳をとうに過ぎてからわかった。

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 母・坂田菊子は23歳のとき、大阪の港町の実家でお産した。このあたりのしきたりで、床の間を背にして10条の間に21枚の布団を敷いて、座ってお産をしたという。21枚の布団は、出産後、毎日1枚ずつ除いていったという。

 難産で、逆子だった。菊子は座ってお産する体勢で、生まれてくる赤子の足を自分でも見た。出産後は乳児脚気という病気にかかり、赤子には乳を飲ませることが出来なかった。

 菊子は張った乳を着物の下に隠し、ふたたび下関に芸者として舞い戻った。源氏名は「お菊」という。

 菊子の父は台湾航路の船を持っていて、貿易商のはしりのような仕事をしていた。しかし株に手を出して一夜乞食となり、その衝撃から病気になり働けなくなってしまった。

 これは、芸者になる前の話を一切しなかったお菊が、ポツリポツリと知人に話したものなので、真偽のほどはわからない。お菊のつくり話かもしれない。

 お菊はまだ小さい弟や妹、家の借金のために下関で芸者となり、わずかだが家にお金を送金していた。

 しかし芸者になったのは、お金だけのためではない。お菊には誰にも負けない特技があった。

 大きく張りのある声が特徴の歌と、琵琶の演奏だ。この弦楽器をお菊がかき鳴らし自分の声をのせると、客の会話がピタリと止み座敷が静まり、お菊の美声と琵琶の音に皆の気持が持っていかれてしまう。

 特に「壇ノ浦」の歌と演奏は、地元下関ということでも人気が高かった。

 お菊の声は母親ゆずりで、幼い頃から「ご詠歌」が得意でよく近所の人たちと歌っていた。

 お菊は自分の才能を生かした芸者という仕事に誇りを感じていた。好きなことをしてお金をいただき、弟妹の成長や、年老いた父母を助けることが出来る。

 いくら教えられても上達しない歌や踊りでちょっと見栄えが良いからと、酌婦になる芸者たちとは違っていたし、その意気込みは高く、琵琶三味線の腕前は抜きん出ていた。

 お座敷はお菊にとって檜舞台であり、真剣勝負の場所であった。

 明治維新で社会は大きく変わりつつあったが、女性の立場は女の子が生まれると残念な空気に包まれることが物語るように、お金持ちに生まれようと、貧しく生まれようと、嫁いで子供を産むことが女の人生のすべてに変わりはない。

 自由もなければ、働く選択肢などあるわけがない。

 下関には身ひとつで女たちが働いてお金をもらえる場所、遊郭があった。なんでも、壇ノ浦の戦いで敗れた平家の女官たちが生活のために身を堕したのが始まりと言われているので歴史は深い。

 現代の社会では罪となるこの売り買いも、食うや食わずで社会の成り立ちすらない時代では、誰が咎めることが出来よう。

 日本初の花街もこの下関が発祥と言われる。

 芸者の数は明治34(1901)年をピークに1万7000人と最盛期を誇る。

 菊子も勢いのある下関花街の話を人づてに聞き、大阪から身ひとつで下関稲荷町にやってきた1人だ。

「大阪の海と違うて、青い海や」

 長州の政治力に長けた男たちと、それを取り巻くあまりに数の多い女たちの息づかいに、大事な琵琶を抱きしめながら菊子は武者震いをおこす。

 下関花街のしきたりや生活習慣にようやく慣れた頃、お菊は「こんな人になりたい」と思えるお手本のような女性を知った。

 それは、幕府を倒す原動力となった長州藩の志士、高杉晋作の愛人「おうの」だった。おうのは、高杉亡き後仏門に入って菩提を弔う生活を送っていたが、若い時は下関稲荷町近くの座敷に上がる芸者で、三味線を得意としていた。座敷に上がらなくなった後も、三味線の師匠として広く名を知られており、下関花街では伝説の人であった。

 英雄の「いい人」だったことだけでも花街では女の立身出世と言われるが、お菊はおうのが三味線一本で身を立てたことが目から鱗だった。

「ここで稽古をつめば、道が開けるかもしれん」

 目標が出来たことでお菊は琵琶の稽古と演奏にますます力を入れた。

 大きな戦いの舞台となった関門海峡を目にしていると、男も女も気持ちが駆り立てられるようになるようだ。

 男女入り乱れ活気ある花街のお座敷で、22歳の芸者のお菊と27歳のスコットランド出身のイギリス人は出逢った。

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 義江の父、ネール・ブロディ・リード。外交官をしていた父親がスペイン赴任のさいに知り合った女性と結婚して生まれたのが、リードだ。であるから、義江にもスペインの血が混じっていることになる。

 リードは英国グラスゴーの大学を卒業して、父と同じ外交官をしていた。その後貿易の仕事に進み、明治20年代に日本にやってきて、長崎で働くことになる。

 長崎の会社の名前はホーム・リンガー商会。その後長崎の本社から、下関支店の支社長として赴任してきた。

 下関の「春帆楼」の座敷で、リードはよく芸者をあげた。

 春帆楼は、もともとは大分県中津藩御殿医だった蘭医の藤野玄洋が開業した「月波楼医院」という眼医者さんであった。

 長期療養の患者のためにお風呂屋や休憩所が備え付けてある。患者には、妻の「みち」が手料理を出していた。

 これが原型となり、玄洋の死後、みちが割烹旅館として接客できるように改築し営業を始めた。すると、役所の奉公人たちも訪れるようになり繁盛しはじめた。

 幕末、高杉晋作が創設した奇兵隊や長州藩の諸隊で軍医として活躍していた頃から玄洋の友人だった伊藤博文が名付け親にもなった。

「春うららかな眼下の海にたくさんの帆船が浮かんでいた」のを見たということで春帆楼の名前が付いた。

 明治維新後、朝鮮半島の権益を巡って対立を深めた清国(中国)との間で勃発した日清戦争。その終結のため明治28(1895)年3月19日、伊藤博文ら日本側と李鴻章ら中国側とが相対した「日清講和会議」が行われたのもこの春帆楼だ。2階大広間で昼夜におよぶ交渉が4月17日まで繰り広げられ、戦勝した日本側に有利な形で「日清講和条約(下関条約)」が締結された。

 リードが日本の役人や取引先と商談するときは、もっぱら花街の座敷だった。スコットランドではそんな時は簡単にバーで話をするが、検番、料亭、人力車、料理人が総動員する仕組みの花街にリードも初めは驚いたが、次第に居心地がよくなった。

 春帆楼の座敷で、お菊という琵琶を弾く芸者に出会った。他の芸者の様に、蝶よ花よの華やかなところはないが、整った目鼻立ちに浅黒い肌。他の芸者の様に白くし過ぎない肌が、顔立ちの良さを引き立て、健康的に映った。漆黒の艶やかで量の多い髪の毛は、東洋の神秘を感じさせた。

 お菊とやらがかきならす東洋の弦楽器、琵琶の重い音色とその歌声に気持ちまで引き寄せられてしまったリードは、座敷に足繁く通うようになる。

 花代は決して安くはないが、当時の日本とイギリスの貨幣価値から考えてみても、リードや会社にとってはそこまで高価なものではなかった。

 ほどなくして2人は懇ろの関係になり、お菊はこのイギリス人貿易会社支配人の男と、何回かの交わりで子供を授かった。

「これからが琵琶芸者としての勝負や」

 と考えていたお菊には予想外の出来事だった。

 リードも、お菊に気持ちが引き寄せられ懇ろになったが、正直、日本の芸者と一緒になるつもりはなかった。

 そんな中、リードはスコットランドに帰国することとなり、お菊とは一切の関係を断つことにした。

 関係を断つにあたり莫大な手切れ金を渡したというが、お金は一文もお菊の手に入らず、置屋に渡ってしまった。

 それは、子供時代の義江の貧しい生活を見れば明らかだ。

 お菊の稼ぎで赤子と大阪の実家の生活をまかなわなければならない。

 才能がある芸者でも、よい旦那を見つけ落籍してもらう以外、働けど働けど生活に追われた。

 下関花街ではあっという間に「お菊が毛唐の子を産んだ」と評判になっていた。

 琵琶奏者としての才能をもったお菊に、芸者同士のやっかみも元々あった。聞こえてくる様々な噂話に絶えられなくなったお菊は、下関を離れることを決意する。まだ乳飲み子の義江をかかえ、関門海峡を渡り九州に渡った。

「なんとか、腕一本で食べていかなければ」

 お菊にとって琵琶三味線は生活の糧でもあった。しかしどんな形か想像もまだつかないが、いつか琵琶の演奏で自分の道を切り開きたいという野心に満ち溢れていた。(つづく)

佐野美和
政治キャスター。東京都八王子市出身。株式会社チェリーブロッサムインターナショナル代表取締役。大学在学中、フジテレビの深夜番組として知られる『オールナイトフジ』のレギュラーメンバー「オールナイターズ」の一員として活躍した。1992年度ミス日本に選ばれる。TBSラジオのパーソナリティ、TBSラジオショッピングの放送作家を経て、1995年から2001年まで八王子市議会議員として活動。以後はタレントとしてテレビ出演のほか、講演会も精力的に行う。政治キャスターとしてこれまで600人以上の国会議員にインタビューしている。主な書籍に『アタシ出るんです!』(KSS出版)、『あきれたふざけた地方議員にダマされない!』(牧野出版)などがある。