夏目漱石の恋心を偲ぶ湯と、川端康成が執筆に没頭した“雪国の宿” 文豪が愛した温泉宿

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川端が3年間を過ごした宿

 温泉を作品のモチーフに選んだ文豪と言えば、川端康成も外せない。学生時代から湯けむりに魅せられ何度も旅に出た川端は、伊豆湯ヶ野温泉を舞台にした『伊豆の踊子』を書き上げるが、若い頃に編んだ短編「温泉宿」も趣深い。

 その冒頭は、秘湯の一軒宿で働く女たちの、こんな書き出しで始まるのだ。

〈彼女らは獣のように、白い裸ではい回っていた。/脂肪のまるみで鈍い裸たち――ほの暗い湯げの底にひざがしらではう胴は、ぬるぬる粘っこい獣の姿だった。肩の肉だけが、野ら仕事のようにたくましく動いている。そして、黒髪の色の人間らしさが――全く高貴な悲しみの滴(したた)りのように、なんというあざやかな人間らしさだ〉

 貧しい家に生まれ育った女たちが、いつしか温泉宿に流れ着き、身を売るまで――作品全体から淫靡な風情が醸し出される。そんな温泉への冷めぬ情熱は、ノーベル文学賞を受賞した作家のあの名作に結実した。

 雪深い温泉宿で、家庭を持つ主人公・島村と若い芸者・駒子との秘め事を軸にした物語。ご存じ『雪国』の舞台は新潟県湯沢町で、川端は昭和9年の晩秋から昭和12年にかけての約3年間を「雪国の宿 高半(たかはん)」で過ごして執筆に没頭した。

「川端先生は、多くを語らずとも、大きな瞳で人をじっと見る方でした」

 とは、塩沢紬がよく似合う端正な越後美人、71歳になる女将の高橋はるみさん。川端がきた経緯を聞くと、

「先生は、最初から執筆のために訪れたわけではありません。群馬県の上牧駅前の大室温泉旅館へ通っていた時に、三国峠を越えた所にいい温泉があるよと評判を聞いて来られたそうです」

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