「24時間テレビ」「感動ポルノ」を当事者はどう考えるか 障害者芸人ホーキング青山の主張

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美談をどう考えるか

 差別の対象となりうる存在をテレビのお笑い番組で扱うことの難しさを示したのが、ダウンタウン浜ちゃんの「黒塗り騒動」だろう。一方で、そうした存在は「美談」として扱われることが多い。代表例は「24時間テレビ」だ。何らかの障害を負った人が、夢に向かって努力する姿、あるいは壁を乗り越える姿が感動的に扱われる。こうした番組に対して「偽善だ」という批判も無いわけではないが、浜ちゃんが浴びた批判に比べれば大したことはない。

 では、こうした「美談」を障害者の側はどう見ているのか。

 身体障害者芸人として20余年のキャリアを誇るホーキング青山さんは、「24時間テレビ」についての感想を求められることが多かったという。

「多分、私の普段のネタなどから考えて、バッサリ斬ることを期待されているのかなとは思います。舞台では『24時間も観ていたら、当事者は死にかねないだろ』とか『電動車イスで“24時間マラソン”のランナーをやって、ゴールインしたあとに、走ったのはオレじゃなくて車イスだけどね、と言いたい』とか『世界中の車イスのスピードを競うレースをやったらどうか』とか、そんなネタをさんざんやっていましたから。でも、実際には障害者のことをテレビであまり扱っていなかった頃から取り上げていたという点は、『24時間テレビ』は画期的だったと思うんですね。そういう功績はあるわけで、強く『偽善だ』などと言うつもりはないんです。

 ただ、私の考えはシンプルで、障害者といっても所詮人間なんだから、画一的に描けるわけがない、ということ。美談の材料に向いている聖人君子のような人もいるかもしれないけど、そうじゃないヤツだっている。『24時間テレビ』やそれに近い番組では、なかなかその『いろんな人がいる』ということの紹介にはなっていません。そこに違和感があるんです」

感動ポルノをどう考えるか

 障害者が、他人に感動を与えるための道具になっているのではないか。そうした考えから「24時間テレビ」的なるものを批判する人は多い。オーストラリアの人権活動家、ステラ・ヤングさんは、障害者というだけで「感動した」「勇気をもらった」と言われるような倒錯した状況を「感動ポルノ」と表現した。このネーミングは威力が大きかったようで、最近ではいわゆる美談を「感動ポルノに過ぎない」と批判する向きも多い。たしかに、普通に生活しているだけで「感動」されたら、逆に差別されているような気になるのも無理はない。しかし、人はある種の美談に感動しやすいのも事実。問題は「感動されている側」の気分だ。

感動するなとは言えない

「私もたしかに『感動ポルノ』のようなものは好きではありません。しかし一方で『オレを見て感動するな!』と言うのも何だか違うような気がするのです」

 そうホーキングさんは語る。芸人である以上、求めるのは「笑い」であって「感動」ではない。が、なかなかそうはいかない。新著『考える障害者』ではこのあたりの複雑な心境を、かなり赤裸々に綴っている。少し長くなるが引用してみよう。

「周りにはこの障害者だという理由だけで感動の対象にされてしまうことへの怒りや虚しさ、侘しさはわからないようだ。事実『悪く言われているわけではないんだし、感動してくれたんだからそれはそれで良かったと思った方がいいよ』なんて訳知り顔で安易に言われて、本番前に崩れ落ちそうになったこともあった。実際にこんなふうに感じている人も少なくないだろう。

 だから私は『感動するな!』とは言わずに、お客さんの『障害者=感動の対象』という認識と戦うつもりで毎回の舞台をやってきた。

 要は『感動』させなきゃいいわけで、皮膚感覚で『感動』の反対は『呆れ』だと昔から『感動』されてきた経験から感じていたので、デビューして数年のネタで勝負ができないころは『お客さんをどうやって呆れ返らせるか』ばかり考えてネタを作っていた。そして、あえてきつめの毒を吐くことが、とりあえず感動している人を興ざめさせるには一番手っ取り早いと思った。

 だから最初から『見世物小屋へようこそ』なんてツカミから入り、徹底的に下品で下世話にし、誰も聞いてないのに自分の初体験やら手が使えない中でのオナニーの仕方、養護学校時代の同級生が毎日同じ時間にクソを漏らす話等々、まあお客さんを前に自分でも呆れ返るようなことばかりしゃべっていた。
 そうしてまず『これは感動の舞台ではないんですよ』ということをお客さんに浸透させる。そうして興ざめさせた上で、感動を諦めたお客さんがネタを聞いて、純粋に笑ってくれたときに無上の快感を覚えた。

 でもやっぱりそれだけじゃあすぐに行き詰まる。感動を求める人たちには一応挑んだが、しゃべりの技術や内容が向上しないと(要するに芸が上手くなるということです)、ワンパターンになるし、そうなると『結局それしかできない』となり、『やはり障害者じゃしょうがない』となる。そしてさらに、『でも障害を抱えながらも頑張っている』と結局感動の対象にされてしまうのだ。

 だから、とにかく早く実力をつけよう、上手くなろう、と必死だったし、上手くなるほどお客さんの反応も評価が変わっていくのも強く実感してきたが、でもそれゆえにこの戦いは自分が障害者で芸人をやってる以上、少なくとも『障害者なのに』ということ以外の評価を得られるまでは、ずっと続くものなのかなとも思っている。

 結局、『感動ポルノ』に対抗しうるものは、『感動するな!』と叫ぶよりも実力をつけ、『根拠のない感動』ではなくて、『根拠のある感動』を作り上げることだと思うのだ」

「根拠のある感動」とはどのようなものか。ホーキングさんに聞いてみた。

「スティーヴィー・ワンダーやレイ・チャールズは盲目ですが、歌を聴いて『目が不自由なのに凄い』『よく弾けるようになりましたね』なんて人はいません。トム・クルーズは失読症だった時期があるそうですが、『努力して台詞を覚えたんですね。感動しました』なんて言う人はいないですよね。山下清だって、絵が素晴らしいから感動を呼んでいるわけです」

 ホーキングさんは、10年前から落語を学ぶようになり、舞台で定期的に披露している。新作だけではなく古典落語にも挑戦。「障害者ネタ」ではないところでも笑いが起きるようになっている。

「お前は人前に出る仕事だから、いいにつけ悪いにつけ、何らかの評価を得やすいだろうけど、そうじゃない普通の障害者はどう『感動ポルノ』と戦えばいいんだ、と思う方もいるかもしれません。でも、そういう人でも日々の暮らしの中で、近所の人へのあいさつからはじまり日常の営みの中で、障害者がどういうものなのか知ってもらっていけば、自然と『感動ポルノ』の被害はなくしていけるんじゃないかと思うんです。『障害者』ではなくて、『どこそこの○○君』という存在になれば、無闇な感動の対象にはならない。

 私も含めて表舞台で障害者が活躍することも大切でしょうが、そうではない一般の障害者の人たちも自分を通じて障害者というものを知ってもらう意識を持つ。それが障害者のリアルな姿を世間に理解してもらう近道なのでは、と思います」

 もちろん、このホーキングさんの意見は、「障害者の総意」ではなく、「ホーキングさん個人の意見」にすぎない。なかには「どんどん私を見て感動してください」というスタンスの人もいるかもしれない。「いろんな人がいる」という当たり前のことを前提とするところから、理解は始まるのではないだろうか。

デイリー新潮編集部

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