運転士の身辺調査までしていた! 徹底管理されていた天皇乗車の特別列車

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 天皇が乗車する特別な列車があるのをご存じだろうか。「御召列車」と呼ばれるこの列車は天皇、皇后、皇太后が乗車する特別列車を指す。

 平成26年9月、24年もの歳月をかけて編纂された「昭和天皇実録」が公開された。そこには昭和天皇の鉄道乗車記録ももちろん記載されている。

 今年9月に出版された『昭和天皇 御召列車全記録』(新潮社)は、1年もの時間を費やし、この「実録」から昭和天皇の鉄道乗車記録をリストアップ。公文書や各種鉄道資料等で発着時刻、牽引機、編成などを調査し「天皇の旅路」の新事実を解明した。

 今回は、調査の過程で判明した昭和天皇と御召列車にまつわるエピソードをいくつか紹介したい。

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■鉄道マン、栄光と緊張の現場

御召列車を牽引する蒸気機関車。右側の機関車は有名なC51-239号機

 御召列車を運転する鉄道の現場に目を向けると、この国が儀礼と神事の国であることがよくわかる。御召列車が天皇を運ぶ列車であることから、なおさらわかりやすい形で現れる。鉄道員の御召列車にかかわる手記やインタビューを読んでいるとしばしば「斎戒沐浴」という言葉を目にする。

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 御召列車の機関士は、技能優秀なベテラン機関士が選ばれる。もちろん技能優秀だけでは選ばれない。戦前大阪機関区に松井虎太郎という名機関士がいた。

「健康と血統についても、厳重な調べがありまして、近親に脳に病気のある者はないか、血圧は正常か、心臓病はないか、それらがすべてよろしいとなって、いよいよ本決まり(略)この時は大阪の新聞に、私の名が出ました」

「当日の朝は、家に注連縄をはりまして、家族の者もすべて斎戒沐浴、私が一番に水垢離を取って家を出ました」(阿川弘之『空旅・船旅・汽車の旅』中公文庫)

 御召列車の機関士は新聞に名前が出たのだ。当日は斎戒沐浴。機関区では御召機関車を前に神主がお祓いをする「修祓式」を行うのも通例だった。写真を見ると厳かな儀式であることがわかる。

 機関士は客車に振動を与えてはいけないことになっている。出発するときはすべるように発車、停車もいつの間にか停まっているというふうに。しかも天皇の通路に敷かれた絨毯から数センチもずれてはいけない。

 斎戒沐浴はもちろんのこと、修祓式、列車に振動を与えない、ピタリと停止位置に止めるなどは明文化されているわけではない。いつ頃からそうなったのか、残念ながら分からずじまいだった。

 機関士だけでなく、現場の鉄道員(幹部も含め)に緊張を強いる行幸だが、天皇から労いの言葉をもらう場も用意されている。こちらはかなり細かくマニュアルができているのだ。国鉄運転局列車課が昭和46年に作った「お召列車運転の手引」から要約する。

 服装、白手袋着用、帽子を右手に持つ。

1 隣の車両から御料車に入る。(御座所入り口に近づくと陛下のお姿が見える)。

2 次室を通り、御座所入り口で、正面に向かって軽く敬礼をする。(1回)

3 さらに2~3歩進んで正面に向かって最敬礼をする。(1回)

4 陛下からお言葉がある。

5 お言葉が終わったら、そのままの位置で正面に向かって最敬礼をする。(1回)

6 後ずさりして御座所入り口まで戻り、正面に向かって軽く敬礼する。(1回)

7 1~2歩後退して次室に入り、向きを変えて退出する。

(注)陛下のお言葉は通常「このたびはご苦労であった」であり、お言葉に対する返事はしないことになっている。

「正面に向かって敬礼又は最敬礼」をする場合、お並びになっておられる両陛下の中央に視線を向けて敬礼をすること。両陛下別々に2度敬礼はしない。

 機関士や駅員には、ホームなどで天皇から声をかける機会が設けられている。御召対応を何度も経験した下山定則(のちの国鉄総裁)は、「終着駅に着いて小豆色の皇室専用の自動車が出ていく音をきくとき一ぺんに安心感が湧出す」と言ったそうだ。鉄道員の本音であろう。

■機関砲を積んでいた? 厳戒態勢!戦勝祈願御召列車は伊勢神宮へ

 昭和16年12月8日、日本の真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まった。翌昭和17年12月8日、昭和天皇は戦勝祈願のために伊勢神宮へ行くことになった。実際には11日に東京を出発し、京都で1泊ののち12日に伊勢神宮参拝、その日のうちに京都に戻り、13日に還幸した。東條英機首相も同乗していた。

『昭和天皇御召列車全記録』を編集するにあたって、『昭和天皇実録』とともに重要参考文献としてほぼ毎日ページをめくっていたのが星山一男著『お召列車百年』という本だ。御召列車のバイブル的な本である。昭和17年の伊勢神宮戦勝祈願御召列車について、以下のような記述がある。

「チキ1500形式の貨車2両に高射機関砲を積載して、お召列車の前部・後部に連結したのである」

 すでにB25による本土空襲があり、しばしば空襲警報が出されていた時期のことだ。御召列車が狙われることも可能性としてはある。

 私は星山氏のこの記述を読んで、まず写真を探そうと考えた。しかしいくら探しても写真は出てこない。ではこの日の列車編成を調べようとしたが、これもなかなか出てこない。そうこうするうちに、当時の資料が米原市役所にあるという話を聞いた。連絡すると旧米原機関区の文書が市役所に移管、保管されているという。

 米原市役所に行くと、分厚い簿冊が何冊も出てきた。1ページずつめくっていくと、「大阪鉄道管理局局報」の中に運行計画などとともに編成が出てきた。そこには機関砲を積んだ貨車はなかった。星山氏はどのような資料を見たのだろうか。

 では機関砲を積んだという事実はなかったのか。調べに調べて宮内庁宮内公文書館に保存してある昭和17年の「幸啓録」に記述を見つけることができた。なんと機関砲4門を指導列車(御召列車の前を走るいわゆる「露払い」列車)に積み、近衛兵1個中隊(50人)も乗り込んでいた。

 昭和天皇が戦勝祈願のために伊勢神宮へ行幸したことは、東京へ還幸した翌日の12月14日に新聞が報道して国民は知らされた。報道管制が敷かれていたのだ。御召列車が通過するというだけで奉迎者が溢れた戦争前とは様相が一変していたのだ。

田中比呂之(たなか・ひろし)
1957年札幌市生まれ。新潮社に入社。月刊誌編集部、営業部など経て書籍編集部。編集を担当した「日本鉄道旅行地図帳」(監修・今尾恵介、全12号)は累計160万部を突破した。

新潮45 2016年12月号掲載

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