「高倉健」養女が漏らした“絶対許さない” 終の住処を解体、水子墓も更地に

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 83歳で逝った俳優・高倉健(本名=小田剛一)の命日は11月10日である。今年は三回忌の節目だったが、ここへきて、問題の養女(52)とのことがいくつか分かってきた。

 これまで判然としていなかった2人の出会いについて、さる映画関係者は「健さんと彼女が出会ったのは今から19年ほど前、場所は香港の高級ホテル『ザ・ペニンシュラ香港』だったと聞いています」と明かす。ホテルジャーナリストをしていた彼女が名刺を渡して猛アタック。当時、健さんが家政婦を探していたこともあり、世田谷区瀬田の豪邸に入り込むことになったのだという。

 その後、2014年11月に健さんが逝く前年に密かに養子縁組。没後は数十億円ともいわれる遺産の全てを相続し、健さんの著作権を管理する「高倉プロモーション」の社長におさまった。

■不信感を募らせる親族

 福岡県中間市で生まれた健さんは4人きょうだいの次男である。兄と、すぐ下の妹はすでに他界しており、きょうだいの中で唯一健在なのが末妹。彼女をはじめとする親族に健さんの死が知らされないうちに、養女の手配によって遺体が荼毘に付されたことは、本誌(「週刊新潮」)でも以前報じた通りである。以来、養女に対する不信感を募らせている健さんの親族らが、小田家代々の墓がある中間市の正覚寺に集まったのは、11月7日のことだった。正覚寺に聞くと、

「小田家の親族の皆さまの三回忌法要ですか? やはり檀家さんのことですから、わたしたち寺がお話しすることはできないんです」

 法要は午前10時から、寺の本堂にて行われた。参加したのは健さんの親族の他、生前、彼と親交があった者数名。仕出し弁当に酒も出たが誰もほとんど手をつけず、皆で思い出話に花を咲かせていたという。

■「南極物語」出演秘話

11月19日に始まった追悼展

 その3日後の命日には、全国各地で親交のあった人やファンが祈りを捧げたに違いない。中には、生前、健さんが毎年参っていた長野県の善光寺からわざわざ副住職を呼び寄せ、法要を行った人もいる。健さんの元付き人で京都市内でガソリンスタンドを経営する西村泰治氏だ。

 健さんのことをダンナと呼ぶ西村氏は、

「ワシの事務所にはダンナから貰ったお不動さんの像が祀ってある。命日の10日は、副住職にお経をあげていただいている間、ワシの家族や従業員、ダンナの熱心なファンなど20人から30人、皆で一生懸命に手を合わせとった」

 と言い、件(くだん)の「お不動さんの像」を巡る健さんとの思い出を振り返る。

「ダンナが『南極物語』のロケに持っていき、戻ってきた後はワシが預からせてもらっている。思い出すのは、あの映画を製作したフジテレビから台本が送られてきているのに、ダンナが何の返事もせずに放っていたら、ワシのところに吉永小百合さんから電話がかかってきたこと。吉永さんのご主人はフジのディレクターだった方。それで吉永さんはダンナに『南極物語』に出演して欲しくてワシに電話をしてきた」

 どのように説得するか思案したあげく、西村氏が口にしたのは、健さんの元妻で1982年に他界した江利チエミの名前だった。

「“チエミちゃん、寒いところにいるでしょうね。ダンナも寒いところに行ってみて、同じ思いを味わってみたらどうでしょう?”といった話をしたところ、最終的に“南極も悪くないな、行こうか”となった。ダンナは次の日、比叡山の飯室谷不動堂に行き、滝に打たれて体を清めた。その際、大阿闍梨の酒井雄哉師が下さったのが、お不動さんの像だったのです」(同)

 三回忌に合わせ、養女は〈追悼特別展 高倉健〉を準備してきた。東京・丸の内の東京ステーションギャラリーで11月19日から催されているこのイベントには行かないのか、西村氏に問うたところ、

「行きたくありません。どれだけ写真が飾ってあっても、心の繋がりが感じられなければ意味がない」

 と即答した上で、

「ワシが思っているのは、日本だけではなく、世界中にいるダンナのファンや関係者が、手を合わせて供養できる場所を作ってほしいということ。本当にそれだけなのです」

 そう語るのだが、果たして、当の養女にそのつもりがあるかどうか。何しろ、健さんの死後、彼女が行ってきたのは創造ではなく、破壊。健さんがこの世に生きた痕跡を次々と壊して回っているのだから――。

■“絶対許さない”

世田谷区にあった健さんの豪邸

 その1つが、世田谷区瀬田の豪邸。今年5月に解体工事が始まり、敷地内に建っていた3棟のうち2棟が取り壊された。そして現在は、養女が社長を務める高倉プロを建築主とする2階建て新築住宅を建設中で、来春完成予定である。

 健さんはこの土地に大変な思い入れを持っていた。59年、彼が江利チエミと結婚し、新居を構えたのがその場所だったためだが、脳裏に刻まれていたのは楽しい記憶ばかりではない。結婚の3年後に身ごもった江利は残念ながら妊娠中毒症で中絶を余儀なくされ、70年には火事で自宅が全焼。翌年、2人は離婚し、江利が帰らぬ人となったのはその11年後だ。

 江利との悲しい思い出が刻まれた場所はもう1カ所あった。神奈川県鎌倉市にある鎌倉霊園。健さんはこの地に江利との間の水子を弔うための水子墓を建立、折に触れて訪ねてきては静かに手を合わせていたという。しかし、その水子墓も今はもうない。健さんの死後、養女が墓地を更地にしてしまったのだ。

 何が養女をこうした非情な行動に走らせているのか。これまで関係者は一様に訝しむばかりだったが、ここへきて、その答えに繋がるかもしれないエピソードが漏れ伝わってきた。

「養女は折にふれて“高倉を絶対許さない”と言ってきたというのです。彼女は健さんが健在だった頃、決して表に出てはならない日陰の存在として蟄居させられていたことについて思いを募らせていたのかもしれません」(民放関係者)

 その昏(くら)い思いが破壊行為に繋がっているのだとすれば慄然とする他ないのだ。

 養女は、もうこの世にいない「高倉健」をどこへ連れていこうとしているのか。行く末は見えない。

特集「『高倉健』三回忌! 遺産総取り『養女』の愛憎深し」より

週刊新潮 2016年12月1日号掲載

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