藝大生の必需品 最後の秘境「東京藝大」探検記(2)

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 上野の森の奥深くにたたずむ東京藝術大学は、日本でただひとつ、音楽と美術の学部をあわせもつ大学である。そこに棲息するのはアートに人生を賭ける「芸術家の卵」たち。

 彼らの姿を生き生きと描き出したノンフィクション『最後の秘境 東京藝大 天才たちのカオスな日常』の著者、二宮敦人さんは、取材を重ねる中で、学生たちの持ち物にも着目したそうだ。

■口の怪我は「捻挫のようなもの」

「必需品ってありますか、と毎回聞くようにしていたんです。そうしたら出るわ、出るわ、聞いたこともないようなアイテムが。『響声破笛丸』ってご存知ですか?」
 きょうせいはてきがん、と読む漢方薬だそうである。

「声楽科の方の必需品です。喉を常に使うから、のどあめが必須なんですね。プロポリス、ボイスケア、龍角散の3派に分かれているそうですが、本当に調子が悪い時に使う最終兵器が、『響声破笛丸』なんです」

 文字面を見るだけで効きそうだが、喉の仕事をする人たちの中では有名な薬だそうだ。

「リップクリームが欠かせないと言っていたのは、ホルン専攻の学生さんです。あ、スティックタイプのものではなく、ケースにクリーム状になって入っている、薬用のものです。ホルンでは口で音を出し、楽器でそれを増幅するので、口が荒れてしまうと大変なんだそうです。口内炎ができてしまうと、もう……涙目で吹くことになるのだと」
 
 口は、彼らにとっては商売道具なのだ。

「普段からビタミンを取ったり、ケアをしているそうですよ。『口の怪我は、アスリートでいう捻挫のようなもの』とのことでした」

 もちろん扱う楽器が変われば、必要とする道具も変わってくる。

「打楽器やハープを専攻している方は、テーピングや高級な絆創膏が手放せないと言っていました。太鼓のバチは指の間に挟んだりするので、その部分の皮が剥けたり、マメができるそうです。ハープは爪のキワが食い込んだりするそうですね。ただ、安い絆創膏を使ってしまうと、ねばねばしたものが弦についてしまうので、ケアリーヴという少し良い絆創膏を使っていると聞きました」

 ボクサーがバンテージをしたり、サッカー選手がレガースをするようなものらしい。スポーツ選手と同じように、準備運動もあるそうだ。

「ファゴット専攻の学生さんは、毎朝、藝大に行く電車の中で指をつまんで伸ばして、ぐいぐいやって、ストレッチするそうです。この準備運動をすると、指の回りが全然違うそうで」
 
 喧嘩に行く前の不良のような話だが、ファゴットは指で押さえるところが28個もある。指が動かないと練習をするにせよ、演奏をするにせよ、どうしようもないのだ。

 日常が大事。習慣が大事。

 音校(音楽学部)のいくつかの専攻では、常にハイヒールを履くことが推奨されているという。ただお洒落だから履いているわけではない。本番ではハイヒールにドレスで演奏するのだから、普段からそれに体を慣らしておいた方がいいというわけ。

 一方、美校(美術学部)で推奨される服は、エプロン、ツナギ、ジャージといった作業着だ。汗だくになって、絵具まみれになって作業するから、汚れてもいい服でいる方が良いのである。

 ただ、そんな美校内でもちょっとした派閥があるとか……。

「油画はだいたいツナギですけど、版画の人たちはエプロン着用のようですよ。版画の人たちはツナギにちょっと憧れてて、油画の人たちはエプロンがお洒落だなって思ってるらしいです」

■金槌だけで20本所有

 美校の学生が持っている必需品は、また音校とはがらりと様変わりする。

 作業中に手を拭いたりするための手拭は、当たり前のように女子も男子も持っていて、場合によっては頭に巻いている。もののスケール感をいつでも計れるようにと、メジャーを持ち歩く建築科の学生がいれば、100分の1スケールのノギス(測定器)を常用し、何でもミリ寸法で会話してしまう工芸科の学生がいる。100メートル走は彼らに言わせれば10万ミリ走なのだろうか? 

 染織専攻では石鹸水に布をくぐらせたり、真冬にプールの中で布を洗ったりするので手が荒れる。だから、ハンドクリームが必需品。かぶれと戦う漆芸専攻では、かなり厳重に手荒れ予防を行っているようだ。

「漆が手についてしまった時の洗い方があるんだそうですよ。まず、油で落とす。それから洗剤で洗って、次にハンドソープで洗って。それから、ハンドクリームを塗る。漆芸専攻ならではの知恵ですね」

 金槌が必需品という専攻もある。

「と言っても、1本や2本ではないんです。20本前後はあると言っていましたね。そんなにたくさんの種類、お店にあるのかと思うじゃないですか。彼らは金槌を買うと言っても、頭の部分だけ買うんだそうです。そして面をベルトサンダーで削って、紙やすりで磨いて、研磨して、木の柄も自分でつける。ほとんど作っているようなものなんです」

 20本も使い分けられるのかと思ってしまうが、全く問題ないという。

「それくらいないと困るそうです。すべて使い道が異なるのだと。多い人は何百本も持っているというから、驚きです」

 道を極めていこうとするなら、それくらいのこだわりは出てくるのだろう。プロ意識と言ってもいいが、それは他の専攻にも通じるもののようだ。最後に、デザイン科の学生の逸話。

「紙を物凄くたくさん持っているんですよ。クリアファイルに色とりどり、質感も様々なものを整理して、まとめていました。紙見本だそうです」

 製紙会社に行くと、紙の見本がずらっと並んでいるという。それを紙袋にどっさり、両手で抱えるくらい貰ってくるそうだ。

「ポスターやチラシを作る際に、必要になるんですね。最近はポスターを触るだけで紙の種類をあてられるようになってきた、と言っていました。あの会社のあの紙だから、今度自分でも使ってみようとか……」

 専門の道具を己の肉体のように使いこなし、また己の肉体を道具のように使いこなすためにメンテナンスする。

 藝大生の見ている世界は、アスリートや職人のそれに近いのである。

デイリー新潮編集部

2016年10月5日掲載

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