〈「お言葉」を私はこう聞いた〉承詔必謹――蜷川正大(民族派・二十一世紀書院代表)

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 七月十三日に突然NHKが、陛下の生前の御譲位の意向を報道し、翌日の新聞各紙が一面でそれを伝えた。

 なぜこの時期に、誰が何のために、このような重大なことをリークしたのかと、強い憤りを感じた。

 宮内庁は、「一切ない」と全面否定したが、宮内庁に対する不信感は募るばかりであった。この突然の報道から、様々な分野の様々な方が、陛下の生前の退位、譲位についての賛否(賛成する論はほとんど見られなかったが)を論じられていた。

 俄かには信じられないことではあったが、もしそれが本当に陛下の御意志であるとするならば、最善の対処について、雑誌等に発表された保守派と言われる方々の意見を参考にさせて頂いた。

 その論の大勢を占めていたのが、皇室典範を改正せずに、過去の例(大正天皇が御病気の際に、皇太子裕仁親王が摂政となられ、御公務を代行された)に倣って「摂政」の宮を置くことでお体を休めて頂く、という意見であり、私の周りの民族派の人たちも、その意見が多かったように思う。

 陛下がどんなに御高齢であって、国事行為に支障をきたしても、その御存在の継続こそが、日本と日本人にとって尊いことであると私は思っていた。

 しかしながら、八月八日に発表された陛下のお言葉の中に、「象徴」であることの重圧と、責任感、国民に対する慈愛に満ちたお言葉を聞いた時に、自分の考えの甘さ、日本人としての自覚のなさを思い知らされた。

 陛下は、お言葉の中で、国事行為を軽減したり、さらに「摂政」や御自身が「上皇」の立場になられることを暗に否定された。

 陛下の深い思いに、ただ恐懼(きょうく)している時に、ふと脳裏に浮かんだのが、大東亜戦争の折の、支那派遣軍の岡村寧次(やすじ)司令官の終戦時のエピソードである。

 昭和二十年の終戦時に中国大陸にいた「支那派遣軍」の総勢は百五万人。ほとんど無傷の精鋭部隊であった。戦術的にも蒋介石の国民党正規軍を圧倒していた。八月十一日には大本営がポツダム宣言を受諾する旨を打電してきた。しかし、無条件降伏を不服に思った岡村司令官は、「百万の精鋭健在のまま敗戦の重慶軍に無条件降伏するがごときは、いかなる場合にも、絶対に承服しえざるところなり。(宣言受諾は)帝国臣民を抹殺するものに斉しく帝国臣民として断じて承服し得ざる」と述べ、八月十四日、「徹底抗戦遂行に邁進すべく御聖断」求める旨を天皇に上奏する。

 しかし翌日、昭和天皇が宣言受諾を決定した旨伝えられると、岡村司令官は考えを改め「承詔必謹」(天皇の決断を承り実行すること)を隷下将兵に厳命する。

 私は、学者ではないので、陛下のお気持ちに沿うためにはどうしたら良いのか、どういう法改正が良いのかということには無知である。ただ市井に生きる民として言えることは、天皇のお言葉を承れば必ず謹め。すなわち承詔必謹。これ以外に臣民の道はないと思う。

 仄聞すれば、宮内庁は五年も前から陛下のこのような内なる御意志を知っていたという。にもかかわらず、何の手だてもせずに八月八日の日を迎えた。これが、政府はもとより、国民にどれほどの影響を与えるのかを知っていながらである。宮内庁は、御皇室と時の政権、あるいは国民との間においてショックアブソーバーの役割を果たさなければならない。その役目を果たさず、陛下の宸襟(しんきん)を悩ませたことの罪は大きいと言わざるを得ない。大時代的ではあるが、君側の奸という言葉が当て嵌まる。皇尊弥栄(すめらみこといやさか)

「特集 天皇陛下『お言葉』を私はかく聞いた!」より

週刊新潮 2016年8月25日秋風月増大号掲載

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