「障害者ヘイトの狂信者」を育てた家庭環境 相模原殺傷事件

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植松聖(フェイスブックより)

 相模原市で起きた障害者福祉施設の殺傷事件は、19人死亡という前代未聞の凶行となった。わずか1時間ほどで、次々に人を“処理”していった犯人を衝き動かしたものは何だったのか。そこにあるのは、障害者を人間として認めない「ヘイトクライム」の深い闇である。

 ***

 ここに一通のぞっとする手紙がある。

 今年2月、大島理森衆議院議長の住む議長公邸に姿を現した若い男が、警備の警察官に手渡した3枚の手紙だ。

 1枚目には、

〈この手紙を手にとって頂き本当にありがとうございます。私は障害者総勢470名を抹殺することができます。常軌を逸する発言であることは重々理解しております。しかし、保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳、日本国と世界の為と思い、居ても立っても居られずに本日行動に移した次第であります。(中略)障害者は人間としてではなく、動物として生活を過しております。(中略)

障害者は不幸を作ることしかできません。(中略)今こそ革命を行い、全人類の為に必要不可欠である辛い決断をする時だと考えます。(中略)何卒よろしくお願い致します。(中略)文責 植松聖〉

 2枚目は得体の知れない自己紹介で、3枚目はあたかも犯行予告だった。

〈作戦内容 職員の少ない夜勤に決行致します。重複障害者が多く在籍している2つの園を標的とします。見守り職員は結束バンドで見(ママ)動き、外部との連絡をとれなくします。(中略)2つの園260名を抹殺した後は自首します。(後略)〉

 当然、所轄の麹町警察署はこの内容に驚き、植松の自宅を管轄する神奈川県警津久井警察署に事案を通知し、手紙をファクスで送付した。今年2月15日の話である。

 この若い男、植松聖(26)が黒のシビックで津久井署に現れたのは、5カ月以上が経過した7月26日未明、午前3時過ぎのことだった。彼の着衣や手元は血に染まっていた。

「奴をやりました」

 こう告げる植松にただならぬ雰囲気を感じた警察官は、即座に彼の車を調査。後部座席には、血痕のような茶色に変色した複数の結束バンドがバラバラと落ちていた。助手席には血液が付着したポリ袋。バッグには、血糊がついたナイフと包丁が3本、入っていた。植松は、「やまゆり園の障害者を抹殺した。障害者がいなくなればいい、と思った。このナイフで刺したことに間違いない」と供述したのである。

 すでに障害者福祉施設「津久井やまゆり園」職員からの通報があり、別の警察官たちが施設に急行していた。現場に臨場した捜査員は目を背けたくなるような光景に慄然としたという。

 植松の供述通り、施設の複数の室内や廊下には、首から血を流して倒れている人間が数十人。刺創が頸動脈に達している被害者もいて、辺り一面、血の海と化していたのだ。

「やまゆり園」に続く通りは40~50台の救急車で埋め尽くされ、地鳴りのようにサイレンが響く中、次々と被害者を搬送していった。神奈川以外の他県からも多数の救急車が駆りだされたが、それでも車両が不足し、息のある重傷者が優先されたためか、施設内には明け方まで遺体が多数残されていたという。

■リア充の裏に憎悪

 19人死亡、26人が重軽傷となる戦後最悪の大殺戮劇。手紙を見る限り、前々から準備をしていた襲撃犯、植松はどういう人物なのか。

〈会社にバレました。笑顔で乗りきろうと思います〉(植松聖のツイッターより)

 昨年1月、25歳の誕生日に背中一面の刺青をツイッター上で晒し、

〈会社にバレました。笑顔で乗りきろうと思います〉

 そう綴っていた植松は90年に東京・日野市で生を享け、間もなく現在の自宅に引っ越した。

 父が小学校の図工教師という家庭のひとりっ子。小中学校は地域の公立に通い、八王子市内にある私立高の調理科に進学し、バスケ部に所属した。

 卒業後は現役で帝京大学へ。父親に倣ってか教職課程を選択し、周囲にも、

〈俺、子供が好きなんだ。将来は先生になりたい〉

 と話していた。実際に母校の小学校で教育実習も行っており、近所に住む男性によれば、

「私の孫が実習中に教わったのですが、とても熱心で、みんなから好かれている評判のいい先生だと言っていました」

 体育会ひとすじの高校時代を経て、大学ではもっぱら飲み会を行なうサークルに所属。別の住民も、

「友達は多かったし、よく自宅にガールフレンドも連れてきていました」

 というのだ。

 猟奇殺人や無差別大量殺人犯には、しばしば引き籠りなど社会性の欠如がみられる。が、頻繁に仲間が登場するツイッターと合わせ、社交性に富む植松は「リア充」の青春を送っていたのが見てとれるのだ。

 一方で、すでに事件の“萌芽”は顔を覗かせていた。

「教職免許を取るために学生時代に児童養護施設でボランティアをしていたのですが、そこにいる障害者の人たちを話題にして『キモい』『あいつら生きている意味がない』なんて言うのです。『お前、それやばいよ』と注意したのですが、度々口にしていました」(同級生)

 しかし卒業後は教職に就かず、なぜか障害者福祉施設である「やまゆり園」に就職。相前後して、自宅でも“異変”が起きていた。

「ご両親が出て行ったのです。お父さんと折り合いが悪いと聞きましたが、夜中にお母さんが『ギャー』と泣き叫んでいたこともありました」(住民の1人)

 もっとも隣の男性は、

「挨拶もきちんとできる好青年でした。お互いの家の間の雑草がひどかったので『除草剤を撒いてもいいか』と尋ねたら、『僕がやりますよ』と、友人を呼んできれいにしてくれました」

 が、心の奥底には邪念が渦巻き、恐るべき形での“発露”は時間の問題だった。その証拠に、

「彼の障害者に対する憎しみはエスカレートしていき、施設の職員でありながら“障害者なんか死んだ方がいい”などと口走るようになっていた。入居者に暴言を吐いたり、暴力を振るったこともありました」(相模原市役所の担当者)

■措置入院で大麻

〈会社は自主退職、このまま逮捕されるかも…〉(植松聖のツイッターより)

 衆議院議長の公邸を訪問した4日後の2月19日、彼は「やまゆり園」を退職する。植松は、自分のツイッターにその日こう書いている。

〈会社は自主退職、このまま逮捕されるかも…〉

 表向きは自己都合だったが、直接的な原因は、警察に手渡したあの異様な手紙だったに違いない。これがキッカケとなって、2月19日、病院の精神科に強制的に措置入院させられたからだ。

「入院期間中に検査を受けた植松の尿から大麻の陽性反応が出たのです。本人も吸引を認めましたが、大麻は所持していないと逮捕できない。結局、植松はここでカウンセリングを受け、3月2日に“危険はなくなった”と判断されて退院するのです」(社会部記者)

 それから4カ月あまりの間、表向き植松の言動に危険な兆候は見られない。ツイッターにも餃子を手作りした話や友人と遊びに行った話題が続いている。

〈餃子に干し椎茸をお湯で戻し、お好みで食感の良い竹の子などを入れ、大葉を敷いて包む。 最強の餃子が完成しました〉(植松聖のツイッターより)

 だが、その裏では古巣を襲うために周到な準備をしていたという。

 1年ほど前から植松が通っていた美容院の店長は、

「3月上旬に店に来た時は、“最重度の障害者は安楽死させたほうがいいと思いませんか? 俺ね、神からお告げを受けたんで、革命を起こそうと思うんです”と捲し立てていました」

 職員を縛るための結束バンド、そしてナイフや包丁の数々――。

〈同時刻にドイツで銃乱射。玩具なら楽しいのに〉(植松聖のツイッターより)

 ツイッターでは事件の3日前、友人とモデルガンに興じる写真を載せ、

〈同時刻にドイツで銃乱射。玩具なら楽しいのに〉

 と綴っている。これが引き金となったのか、26日の午前2時すぎ、寝静まった「やまゆり園」の東棟1階にガシャーン!という音が響いた。

 植松は窓をハンマーで破ると3本のナイフを手に持ち、当直の職員を縛りあげて居室の鍵を奪った。

 そして、一部屋また一部屋と開けては寝ている障害者を襲っていったのだ。

〈世界が平和になりますように。beautiful Japan!!!!!!〉(植松聖のツイッターより)

 犯行時間とほぼ同じ時刻、植松はツイッターにスーツにネクタイ姿の写真を載せ、こう書いている。

〈世界が平和になりますように。beautiful Japan!!!!!!〉

 自らが手を染めた凄惨な儀式を“祝う”ためだったのだろうか。

 現在、八王子に住む父は、

「まだ状況が分からないので、何もお答えできません」

 そう話すのみだった。

週刊新潮 2016年8月4日号掲載

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