退位報道の発端は、天皇陛下が胸中を明かす“家族会議”?〈生前退位の大疑問〉

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 衝撃の一報が駆け巡ったのは、さる13日夜だった。19時のNHKニュースは冒頭で「陛下が生前退位の意向」と大々的に伝え、「お気持ちの表明も検討」とまで踏み込んだのである。

 もっとも宮内庁は、

〈(陛下が)意向を示した事実はない〉

 と、躍起になって否定。では、そのご心中はいかにして届けられたのか。

「報道では『陛下は5年ほど前からこうしたお気持ちを示されてきた』とのことでしたが、そもそもの発端は、さらに1~2年遡ります」

 とは、さる宮内庁関係者である。“驚天動地のプラン”にまつわる疑問を解きほぐす前に、こうしたお考えが生じるに至った経緯を辿ってみると――。

「2008年2月、羽毛田(信吾)長官が『愛子さまのご参内が依然少なく、両陛下も心配されている』と、皇太子殿下に対して異例の“苦言”を呈しました」(同)

 当時の東宮家は、雅子妃のご病気もあり、ご夫妻揃っての活動など望むべくもなかった。それでも長官は、前年の〈(愛子さまが)両陛下とお会いする機会を作っていきたい〉との皇太子さまのご発言を念頭に、そう指摘したのだった。

 御所と東宮との間で、吹き止まぬすきま風。そうした中で一計を案じたのは、他ならぬ皇后さまだった。

「ご家庭内の意思疎通を円滑になさるべく、皇后陛下は、陛下、皇太子殿下、秋篠宮殿下のお三方でご会談を持たれてはどうか、と内々に提言なさったのです。悠仁さまという未来のお世継ぎを擁する弟宮にも加わって頂くことは、大いに意義のあることでした」(同)

 翌09年には「三者会談」が実現の運びとなる。

「折しも09年は、国体でのお言葉の廃止など、ご高齢に伴う陛下のご公務軽減が始まった年でもある。将来に向け、それぞれ果たされるご公務はいかにあるべきかというテーマも、むろん俎上に載せられたのです」(同)

 11年、東日本大震災。これが後々“ご意向”の遠因となっていく。

「陛下はまさに寸暇を惜しまれていました。発生から5日後には、強いご希望もあって被災地お見舞いの『ビデオメッセージ』を公表。3月末から東京や埼玉に避難してきた人々を見舞われ、甚大な被害を受けた千葉県旭市では、現場で黙礼をなさっています」(同)

 そして5月にかけ、

「岩手、宮城、福島の3県に皇后陛下とともに足を運ばれて状況を直接ご覧になり、避難所も訪ねられた。弱者にひたすら寄り添い、悲しみを共にしつつ励ましてこられたのです」(同)

 その一方で御身は、ひそかに悲鳴をあげていた。

「秋口に入って発熱された陛下は気管支肺炎に罹り、11月上旬から約3週間、東大病院に入院されます。が、お見舞いに伺った羽毛田長官が『オーバーワークです。どうかペースを落として下さい』とお願いしても、頑として聞き入れませんでした」(同)

 長引く入院で、国賓として来日していたブータン国王夫妻の歓迎行事は、陛下ご欠席のまま執り行われることとなった。

「即位後、陛下が国賓の晩餐会に欠席されたのは初めてでした。このことがご自身にとって、大きな挫折感となってしまったのです。元を辿れば、未曾有の震災によって誰の目にも明らかな“過労”の日々が始まったわけですが、地震大国のわが国ではこうした事態に何時また見舞われないとも限らない。ではいかにすべきか、と深くお考えになってきました」(同)

 お誕生日会見で“陛下の公務の定年制”について尋ねられた秋篠宮さまが、

〈やはり必要になってくると思います〉

 そうお答えになったのも、ちょうどその年の秋だった。

■春先に強い「ご不満」

 年が明け12年。かねてより不調がみられた心臓が差し迫った状態にあると分かり、陛下は冠動脈のバイパス手術を受ける決断をされた。この時、震災の1周年追悼式へのご出席を強く希望され、周囲は当初、手術を式典後に延ばせないかと模索。が、もはや猶予はなかった。宮内庁幹部が明かす。

「手術は成功し、退院から1週間後、陛下は無事に式典に臨まれたのですが、この時期から『天皇としての任を果たせないのならば……』と三者会談の場で漏らされるようになったのです」

 同年6月には風岡典之長官が就任。三者会談も月1回に定例化し、長官もオブザーバーとして同席するスタイルとなっていた。

「陛下はその場で、皇太子殿下と秋篠宮殿下に対し、御身の処し方について繰り返しお話しになった。居合わせた長官も結果として、聞くともなしに“ご意向”を聞き及ぶ形となる。直接、幹部に退位のご意思を表明することはお立場上無理なので、こうした手法が用いられたのです」(同)

 むろん、これらのやり取りは、御所で陛下の身の回りのお世話をする侍従らの知るところとなる。よって、

「当時から庁内では知る人ぞ知るお話でした。今回の報道も、そうした“陛下がご家族にされた会話”を、たまたま傍で耳にする機会があった、あくまで間接的に聞いた形の職員からもたらされたことが、きっかけとなったわけです」(同)

 とはいえ、非公式にそのお気持ちを拝受した宮内庁側はといえば、

「“中長期的課題”として承ったものの、ご意向に沿ったプラン作りは、実現性も疑問視され、遅々として進みませんでした」(同)

 それが一転、喫緊の課題にせざるを得なくなったきっかけは、今年5月に宮内庁が発表した陛下のご公務軽減案をめぐる、“水面下のやりとり”だったという。

 昨年1年で陛下は、御所や宮殿での面会を約270回こなされ、都内や地方へのご訪問は75回にのぼった。宮内庁はこのうち、年間100回に及ぶ「拝謁」を中心に大幅見直しを敢行。が、1月に念願のフィリピンご訪問を果たされ、慰霊の旅に一区切りついたと拝察された陛下に示されたのは、決してご自身の意に沿うことのない“提案”だった。

「春先に、その原案を侍従職がまとめ、陛下のもとにお持ちしたところ、いつになく強いご難色を示されたのです。それは概ね『こうした案を出すくらいなら、以前より私が考えてきたことは、なぜできないのでしょうか』というようなお言葉でした」(侍従職関係者)

 突き返された原案を再検討した結果、取りやめは8件のみとなったのだが、図らずも露わになった陛下の“本気度”に接し、青ざめた幹部らは遅まきながら仕組みづくりに走り出したというわけである。

 ご意向を実現するための道のりはなお険しい。が、いずれにせよ大いなる歴史の節目を迎えたことだけは疑うべくもないのだ。

「特集 『天皇陛下』生前退位に12の大疑問」より

週刊新潮 2016年7月28日号掲載

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