「広島の味」を全国区にしたカルビーのかっぱえびせん――いま、広島が熱い!(4)

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 サクサクとした食感とほのかな塩味。鼻腔をくすぐるえびの香り。カルビーのかっぱえびせんは誰でも知っている国民的なお菓子だが、よくよく考えてみると妙な食べ物である。せんべいのようでせんべいでなし(そもそも原料はコメではなく小麦粉だ)、「何に似ているか」と聞かれても他に思いつくものがない、唯一無二の存在である。「ちょっとだけ」のつもりで袋を開け、「やめられない、とまらない」状態になって袋を空っぽにしてしまった人も少なくないだろう。

 新潮新書『広島はすごい』によると、実はこのかっぱえびせん、創業者が子どもの頃に親しんでいた「広島の味」を全国区に仕立て上げたものだという。

カルシウムとビタミンB1で「カルビー」

 カルビーはもともと、広島の会社である。実質的な創業者は松尾孝(1912~2003年)。実家は羊羹や飴を販売する「松尾巡角堂」を経営していたが、孝が幼少の頃には製粉業や飼料製造を主力としていた。孝は1931年、中学卒業後にこの家業を継いだ。

 しかし、すぐに戦時統制の時代となり、戦前は米糠や砕米(こごめ)の販売で糊口をしのいだ。孝は終戦時には福岡にいたため被爆は免れたが、爆心地から1・5キロの地点にあった実家は全壊した。

 終戦で広島の焼け跡に戻った孝は、つてを頼ってサツマイモや小麦を手に入れ、パンや芋菓子、飴などを作る。食糧難の時代、こうした食べ物は飛ぶように売れた。

 食糧難が解消されると甘いものが欲しくなる。孝は主力商品をキャラメルに据えた。これは確かに売れたが、競争は激しかった。それに加えて、主力市場だった九州で1953年に水害が発生した影響で、会社は事実上の倒産に追い込まれてしまう。

 しかし、孝は「負債は一生かけても返す」と宣言し、55年に社名を「カルビー製菓」と変え、再出発する。

「カルビー」という社名は「カルシウム」と「ビタミンB1」を組み合わせたもの。嗜好品であっても健康に良いものを、との思いが込められており、目先の収益にとらわれずに原料段階から製品開発にこだわる姿勢はこの会社の理念となる。

 新生カルビーを支えた商品が「かっぱあられ」である。カルビーは、小麦粉を蒸しながら練り、餅状になった生地を煎ってあられをつくる製法を開発し、日本初の小麦あられの量産を可能にした。

 ネーミングは週刊朝日の人気連載「かっぱ天国」から思いついたもので、「かっぱあられ」のイラストと文字は、「かっぱ天国」の作者・清水崑が描いてくれた。

 ちなみにこのかっぱ、「かっぱあられ」の発売と同じ55年から、黄桜酒造のCMにも登場している。「♪かっぱっぱ、ルンパッパ♪」の歌と共に、裸のかっぱたちが登場するアレである。

瀬戸内のえびに近い味

 1964年に登場した「かっぱえびせん」は、「かっぱあられ」に続くカルビーのヒット商品となったが、そこに至るまでには9年の月日を費やした。

「えびせん」には孝の幼少期の思いが詰まっている。生まれ育ったのは、広島市内を流れる太田川と本川に挟まれた三角州の一角。夏はそこで遊び、取った小えびを家に持って帰ると、母親がかき揚げを作ってくれた。孝はその味をあられに再現しようとしたのである。

 乾燥させたえびの粉末を加えた「えび煎餅」なら、当時も駄菓子屋で売っていた。しかし、孝は風味にこだわり、生えびを頭のついた状態で丸ごと使おうとした。

 その分、鮮度管理が難しくなる。孝の三男・雅彦(後のカルビー社長)によると、大学時代の夏休みにカルビーの工場でアルバイトをしていた時、えびの量が多かったために規定よりも多く冷蔵庫に入れておいたら、すべてのえびが腐ってしまったことがあるという。
 当時の冷凍技術では、有頭のえびの管理は非常に難しく、えびせんの生産はえびの収穫期に限られていた。原料にするえびも、伊予灘、周防灘などのものに限っていた。

 その後、冷凍技術が急速に発達し、えびせんの通年生産が可能になった。市場も拡大し、えびの海外調達も行われるようになったが、採用の基準は「瀬戸内のえびに近い味」。現在でも底引き網で獲ったえびを氷と塩をかけて急速に冷やし、4時間以内に加工工場で冷凍し、「刺し身に並ぶ鮮度」を保っているという。それが、原料の調達から製品開発にこだわる「カルビー規格」なのだ。

孝が幼少期に親しんだ味を再現したかっぱえびせんは、68年から流し始めた「やめられない、とまらない」のCMによって爆発的なヒット商品となった。こうして、創業者の求めた「広島の味」が、国民的な菓子の座を獲得するに至ったのである。

デイリー新潮編集部

2016年6月23日掲載

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