舛添元都知事のケチと虚言の原点を探る――長屋暮らし、執筆の介護本は嘘まみれ

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 いとも簡単に人を切り捨て、攻撃する冷酷さ。病的と表現する他ない吝嗇家ぶり。そして、嘘と脚色で塗り固めた自らの経歴。舛添要一氏の人間性はいかにして形作られたのか――。

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舛添要一元都知事(67)

 福岡県北九州市の八幡東区。大蔵川にかかる三条橋のたもとに、かつて、三条市場と呼ばれたうらぶれた商店街が存在した。今では駐車場が広がり、民家や商店がポツリポツリと建つのみになっているその一角こそ、目下、世上の人々を大いに苛立たせている人物、舛添氏が生まれ、高校3年までを過ごした場所である。

 公金は使いたいだけ使えとばかりにファーストクラスで海外へ飛び、宿泊はスイートルーム。家族旅行に身内の食事、趣味の品やマンガ本まで政治資金で賄う。こうした行為を一言で表すとなると、この語しかなかろう。卑しい。卑しい人間が東京都知事の座にしがみついていた。そのことに何ともいえない苛立ちや恥ずかしさを感じていた人は多いに違いない。その舛添氏について、彼が1999年に初めて東京都知事選挙に出馬した際の選対関係者は、

「彼は最低な人間で、異常な性格の持ち主です。親兄弟や友人など、近くにいる人たちを平気で傷つけて、愛情や友情というものが無いのです」

 と、一刀両断する。

「また、彼の話が嘘っぽいなと感じることは多々ありましたし、当時から病的なケチだった。何しろ、選挙事務所のスタッフに、“トイレを使っても、1回では水を流すな”と言っていたくらいですからね」

 ケチと虚言と異常。果たしてこれらの原点はどこにあるのか。舛添氏の小学校時代の同級生に聞くと、

「一連の報道を見ていて、その原点には彼が小さい頃、お金で苦労したことがあるのかもしれない、と思いました。彼が住んでいたのは古びた長屋。決して裕福な家庭が住むようなところではなく、しかも大勢の家族で住むにはかなり手狭だったと思います」

 舛添氏は5人きょうだいの末っ子。上の4人は全員女で、長姉とは11歳差である。三条市場の一角で八百屋を営んでいた父親のかつての生業について舛添氏は自著で〈炭坑を経営していた〉と記している。が、どうやらそれは嘘のようで、地元の古老によると、

「戦前、父親は今の(北九州市)若松区あたりで石炭商をやりよった。石炭商いうたら今で言うガソリンスタンドみたいなもんやけど、当時は何にでも石炭を使いよったからよう儲けたそうや。ただ、オンナで失敗して事業までダメにしよったらしく、それで三条に移り住んできたようや」

 その父親は舛添氏が中学2年生の時に病死するが、一家を不幸のどん底に陥れる悲劇が起こったのはその6年前のこと。彼は当時、小学2年生だった。

「夏の暑い盛りのことやった。午前11時くらいやったやろか、三条市場の方からすごいサイレンの音が聞こえてきてな。走って駆けつけた時には、あたりに煙が立ち込めて、火の粉も飛び散るわですごい炎が市場の一角を焼いていた」

 と、先の古老が振り返る。

「出火の原因は何でも、材木屋の作業員がかんな屑にタバコの火を落としたことらしい。すぐにあたりには人だかりができたんやけど、そこに紛れて舛添きょうだいがおってな。お姉ちゃんたちと一緒に、まだ小学生の彼が涙を流しながら家が燃えているのを見ていてな。結局、火元の材木屋や彼の家など、7、8軒はすっかり燃えてしまった」

 舛添氏は自著『母に襁褓(むつき)をあてるとき』に、

〈父は、この火事の後、店と家を再建するのに、心身ともに消耗しきってしまい、病床に就いてしまいます〉

 そう記し、それ以来、焼け跡に建てたバラック小屋で母親が八百屋を切り盛りして家計を支えた、としているのだが、このあたりの事情も古老の記憶とはずいぶん異なっている。

「彼が小学校に上がった頃にはもう三条市場自体が寂れていて、八百屋は開店休業のような状態やった。仕事もせずに彼の父親は何をしていたのかというと、大酒を飲みよりよったんや」

 それでは、誰がどうやって生活費を稼いでいたのか。

「彼の姉たちや。特に長姉は中学を卒業してすぐに働きに出よったから」(同)

 また、近所の商店主は次のような光景を憶えている。

「まだ彼が小学校に上がる前かな、一番上のお姉さんが白墨で地べたに字を書いて、彼に教えよった」

 こうした長姉の支えがあったからこそ、舛添氏は地元の県立八幡高校から東大法学部に進み、社会の最底辺から這い上がることに成功したのだ。しかし後に彼は、恩人である長姉の悪口雑言を執拗に書き綴ることになるのだから驚く他ない。

■“15万部も売れた”

 東大に進んでからの彼の人生はまさに順風満帆。若くして東大助教授に就任し、辞めてからも売れっ子国際政治学者として活躍した。私生活では3度の結婚歴があり、それとは別に複数の愛人に子供を産ませるという艶福家ぶりである。彼の2番目の妻だった片山さつき参院議員はかつて本誌(「週刊新潮」)の取材に対して、

〈(舛添氏は)ある時は、サバイバルナイフなどいくつものナイフを私の目の前にズラーッと並べた。彼は、ナイフの収集が趣味だったんです。しかも、そのうちの一つの刃先を私に向けたことまであります〉

 と、氏の異常性を示すエピソードを明かしてくれたが、そんな彼が初めて選挙に挑んだのは前述したように99年の都知事選。政治家転身のきっかけは母の介護体験だったというのが本人の弁で、タイミングの良いことに選挙前年、先に触れた『母に襁褓をあてるとき』を上梓するのだ。その中で、長姉夫妻は、

〈母の寿命を縮めるような愚行〉

〈精神異常とも思われるような凶暴かつ非常識な行動〉

 に走り、舛添氏の献身的な介護をことごとく妨害する人物として描かれる。

「長姉は社会に出てからの彼のことも心配しててな。彼が愛人を作ってしまったことや外に子供を作ったことも気にかけていた」

 と、先の古老が言う。

「そんなふうに弟想いやったのに、どうして仲がこじれてしまったのか。お母さんの面倒はお姉さんたちが交代で看ていたのに、彼がさも自分が全部面倒を看てきたように言い募ったから頭にきたんやろか」

 舛添氏の母親と同じ介護施設に自分の母親も入所していたという彼の同級生は、

「舛添君があの本を出した頃、施設の介護士さんなどに“彼はすごいね”と言うと、冷たい反応が返ってきた。理由を聞くと、“本に書いてあるような介護なんてしてない”と言うのです。カメラマンを連れてきて、介護をしている写真を撮らせて、すぐに帰ってしまうという。私は嘘の書いてある本が許せず、怒りのあまり捨ててしまいました」

 と明かすが、99年の都知事選の際の選対関係者(前出)もこう話すのだ。

「彼はあの本が“15万部も売れた”と自慢し、“月に数回、北九州に帰るのが大変だ”と言っていましたが、月に数回では介護とは言えないでしょう。でも、美化された介護本に多くの人が食いついたことに味をしめ、彼は同じような本を何冊も書いた」

 一連の問題の調査結果を公表した際の記者会見では改めて謝罪し、反省の弁を述べた舛添氏。21日に都知事の座を降りたが、いくつもの嘘で自らの人生を脚色し、家族を傷つけてきたこれまでの恥ずべき来歴を猛省する必要があろう。

「特集 湯河原別荘を売って一儲け? 寝言は寝て言え! 『舛添要一』都知事が恥ずかしい」より

週刊新潮 2016年6月16日号掲載

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