遺産85億円モハメド・アリが稼いだ金…猪木戦ファイトマネーをめぐり拳銃も

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 時間の流れは速くなるばかりで、すぐに白黒決着をつけ、とにかく前へ進むことを強いられる世知辛いこのご時世。だが、人生には時に「引き分け」も必要なことを先人は教えてくれる――。6月3日、敗血症ショックで息を引き取ったモハメド・アリ。享年74。日本人が真っ先に思い出すのは「世紀の引き分け試合」となったアントニオ猪木戦だが、そこではリング上の闘いとは別に、激しい「銭闘」も繰り広げられていた。

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当初、ファイトマネーはアリが18億円、猪木が6億円だったとされるが、猪木が「勝利したほうの総取り」を提案すると、その同意書にアリがサイン。ところが…

 1976年6月26日に行われたアリ対猪木戦。アリは立ったまま、猪木はリングに寝たままで、目立った「応酬」もなく引き分けで終わったこの試合は、当時、大凡戦と揶揄された。

 しかし、最近では緊張感に満ちた異種格闘技戦の先駆けだったと再評価するムキもある。なにしろ、猪木によると後にアリ自身が、

「あんな怖い試合はなかった」

 と、回想していたというのである。とまれ、両者のメンツを保つ意味では、今となってはあの試合の結末には引き分けこそ相応(ふさわ)しかった感すら漂う。

 他方、猪木サイドにはリング外でも恐怖が待ち受けていた。当初、ファイトマネーはアリが18億円、猪木が6億円だったとされるが、調印式の席上で猪木が「勝利したほうの総取り」を提案すると、その同意書にアリがサイン。ところが、

「アリ軍団二十数人が私のところに乗り込んできてね」

 こう振り返るのは、新日本プロレスの専務取締役としてアリ側との交渉を行った新間寿(ひさし)氏だ。

「アリの支配者はマネージャーで、アリにサインする資格はなく、同意書を認めるわけにはいかないと言って、本物かどうか知りませんが、終(しま)いには拳銃まで目の前に置かれました」

 結局、「総取り」は白紙になったものの、

「片手か片膝をリングに突いての攻撃しか認めないという無理なルールを飲まされていたこともあって、試合後にアリに払うことになっていた120万ドル分を拒否したところ、逆に3000万ドル払えと吹っ掛けてきた。これも最終的にはアリのマネージャーと話し合い、払わなくてよいことになりましたが、アリは、今に至るファイトマネーの高額化の引き金を引いたと言えるでしょう」(同)

■「主治医が止めても…」

 命の危険にも晒されるボクサーが、高額のギャラを求めるのは当然ではあるが、

「2年間のブランクを経ての復帰戦となった80年のラリー・ホームズ戦でも、既にアリの体調はすぐれず、主治医が試合を止めていたにも拘(かかわ)らず、800万ドルのファイトマネーを手にできることもあって、アリは復帰の道を選びました」(ボクシング業界関係者)

 ホームズ戦に向けてのスパーリングパートナーを務めたティム・ウィザスプーン(元世界ヘビー級王者)も、

「アリは当時38歳で、途中から『ボディは打たないでくれ』と言ってきた」

 こう回顧するほどであったが、アリは金が落ちているリングへと戻っていったのだった。こうして自らの拳で稼ぎに稼いだ結果、

「アメリカでは、アリの遺産は約85億円と報じられています」(前出関係者)

 その死を悼み、オバマ大統領までがコメントを発表して、世界中から惜しまれたアリ。激闘の「代償」としてパーキンソン病を抱えることになったわけだが、富と名声を得た彼の人生は、引き分けではなく「完勝」だったと言えそうだ。

「ワイド特集 うまい話に裏がある!」より

週刊新潮 2016年6月16日号掲載

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