人類が初めて遭遇する「寝たきり100歳社会」の悪夢 後編〈医学の勝利が国家を亡ぼす 第5回〉

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 日本の将来を決めに行こう――。そう言って微笑む広瀬すずを担ぎ出し、政府が盛んに喧伝した「18歳選挙権」。全政党、マスコミが諸手をあげて賛成した憲政史上初の試みは、悪しきポピュリズムではないのか。評論家の呉智英氏が昨今の「愚民主主義」を憂う。

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 今月十日、十八歳選挙権制初の国政選挙が行なわれた。この半年余、全マスコミ、全政党が異常な政治啓発キャンペーンを展開した。標語風に言えば「あなたの一票が政治を変える」ということになろう。これと類似の標語は保革を問わず語られた。この言葉が異常なことは容易に分かる。全有権者数一億人のうちの一票が政治を変えることなどありえないからである。家族旅行の行先を一家五人の家族投票で決めているつもりなのだろうか。

 まともな政治学者なら、あなたの一票が政治を変えるなどとは言わない。こう言うはずだ。

・組織された一票は政治を変える。

 そして、さらにつけ加えるだろう。

・その政治が良い政治のこともあるし悪い政治のこともある。

 これが政治学の常識である。「あなたの一票が政治を変える」は政治学ではなく政治ファンタジーの言葉である。ファンタジーで国民を啓発するのは、たちの悪い愚民政策である。

 最近「ポピュリズム」という言葉をよく聞く。ポピュルス(民衆)主義という意味だが、良い意味ではなく悪い意味である。「愚民主主義」とでも意訳すれば分かりやすいだろう。

「ポピュリズム」は、ほんの二、三十年前までは、現在のような意味では使われていなかった。これは文学用語であった。庶民の哀歓を描いたE・ダビ『北ホテル』に代表される一九三〇年代の文学潮流のことである。ここではポピュリズムは良い意味で使われている。ところが、この十年ほど、ポピュリズムは悪い意味で使われるようになった。つまり、民衆が正しい判断をする保証はなく、しばしば最悪の選択を求めるが、それに乗ずる政治、という意味である。

「ポピュリズム」にこのような変化が起きたのは、大衆社会の病弊の露呈が著しくなったからである。二十世紀における近代文明の急速な発達の中で、ポピュルスへの信頼がファンタジーにすぎないことが明らかになってきたのだ。G・ル・ボン『群衆心理』は二十世紀初頭以来何度も改版され、現在は講談社学術文庫に収録されているが、この文庫版は一九九三年以来毎年一回の割りで増刷が続いている。オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』は戦後三十年間ほど反動的という評価でかえりみられなかったが、一九八〇年代からしばしば言及される基本書となっている。

 ポピュリズムの蔓延に危機感を抱く人もいるのだ。

 実は、先述のマスコミによる政治啓発キャンペーンの中に、いくつかポピュリズム批判が見られる。もちろん、それは大きな声になっていない、というより、敢えてそうしていないのだろう。

 六月十七日付朝日新聞は、一ページ大の与謝野馨インタビューを掲載した。与謝野は三十年以上自民党の政治家を務め、財務大臣、官房長官などを歴任している。彼は安倍政治について言及しつつ、最後の部分でこう話す。

「民主主義の中で、『国民の声』というものが、必ずしもいつも正しいとは限らない」「残念ながら、国民は楽な道を喜びがちです」

 遠慮がちに、付け足しのように語っている。これでさえ、現役政治家を引退したから言えた言葉だろう。

 若者向けのサブカルチャー雑誌は、世論の本道でないからか、ずばりポピュリズム批判をすることがある。「週刊プレイボーイ」七月四日号は「俺たちはバカなのかもしれない」を巻頭に置いた。内容は、二〇〇一年から今年までの五回の「次の首相にふさわしい人」ベストスリーアンケートの再検証である。二〇一〇年三月の調査(共同通信社調べ)だけ次に示しておこう。

(1)舛添要一 二三・七%

(2)鳩山由紀夫 八・三%

(3)菅直人   七・四%

 何だろう、この顔ぶれは。特に圧勝の第一位は。結論部は見出しと同じく「俺たちってバカなのかもしれない」。

 社会矛盾から民衆の目をそらす役割りをすると批判されがちな娯楽雑誌が、かえって大衆社会の本質的矛盾を指摘している。

■「民衆の怒り」の歴史

 与謝野馨の言う「国民の声」なるものと政治について、歴史的にいくつかの例を見ていこう。

 明治初め、新政府の強権的政治に抵抗して日本全国でいくつもの一揆が起きた。そのうちの一つが、明治四年(一八七一年)の「解放令反対一揆」である。同年、政府は「穢多(えた)非人解放の布告」(解放令)を発し、被差別身分の廃止を宣言した。これに対して「民衆の怒り」が爆発したのである。この一揆は凄惨を極め、いくつもの被差別部落への放火・破壊が行なわれたのみならず、全国で数十人もの部落民が虐殺されている。

 ここで想起すべきは、昨今のヘイトデモだ。「在日特権を許さない市民の会」(在特会)を中心にした民族差別・部落差別を煽動する市民運動である。彼らが市民運動を名乗るのは冗談でもパロディーでもない。既成の政党とも労働組合とも無関係に、市民一人一人が怒りの声を挙げる運動だからである。この粗暴で醜悪な運動にこそ、愚民主主義(ポピュリズム)が如実に現れている。そして、民衆のルサンチマン(怨念)の反映形である点で、解放令反対一揆と同じ構造なのである。

 日本が近代的な「国民国家」の体裁を整えた二十世紀以後の例も見てみよう。

 明治三十八年(一九〇五年)九月、東京の日比谷公園で大規模な国民決起集会があった。同年八月、足かけ二年に及ぶ日露戦争が終結したが、これに抗議し戦争継続を訴えたものである。戦争終結に怒る民衆の声はすさまじく、集会は暴動にまで発展し、警察署などが焼打ちにあった。「日比谷事件」である。

 日露戦争は辛うじて日本が勝利したものの、これ以上戦争を続行するだけの国力は日本になかった。もしここで講和に踏み切らなければ、大国ロシヤの反攻は明らかであり、日本は惨憺たる大敗北を喫していただろう。つまり、民衆の声に耳を傾け、民意を政治に反映させていれば、日本は破滅したのである。

 こうした民衆運動に対して、民意を正しく政治に反映させる制度が未確立の時代だったから、という解釈があるだろう。しかし、不完全だったとはいえ、そういう制度は漸進的に整備されつつあった。既に国会(帝国議会)は明治二十三年(一八九〇年)に第一回が開かれ、旧来の藩閥政治から国民の政治へ、かなり大きく進歩していたのである。

■芥川の不安

 それでも、当時はまだ制限選挙であり、多額納税者のみに選挙権が認められていた。これが普通選挙に変わったのは大正十四年(一九二五年)のことである。これによって、前よりはるかに確実に民意は政治に反映されるようになった。そして日本は大陸侵略の時代、戦争の時代に突入するのである。満洲事変(一九三一年)も支那事変(一九三七年)も大東亜戦争開戦(一九四一年)も、すべて普通選挙以後のことである。

 治安維持法は、どんな右翼、どんな保守主義者でさえ顔をしかめ、リベラリストや革新派であれば絶対的に嫌悪する悪法である。これが成立したのは、普通選挙と同年である。これは、普通選挙法が治安維持法と「引き替え」に成立したからだとされる。その通りだろう。しかし、治安維持法が強化され、上限に死刑を含むようになったのは、普通選挙が成立普及して以後のことである。普通選挙は言論弾圧・思想統制に全く無力であった。

 政治というものは、選挙というものは、民主主義というものは、このようなものなのである。

 七月六日付の朝日新聞は「参院選 投票前に考える」として、特に十八歳選挙権に焦点を絞り「主権者教育」について一ページ大の啓発記事を載せている。記者は氏岡真弓と豊秀一で、二人とも編集委員とある。

 記事には高校三年生のこんな声が出ている。「学校で選挙のやり方だけを教わってもピンと来ない。政治の根本的な情報が欲しい」。そして「『有権者』として投票に行くよう促して終わる授業風景が広がっている」と記者はまとめる。職員室では「面倒な話になる授業は、やめとこ」との声が出ている、とも記されている。

 政治の根本的な情報は出さず、投票に行くように促すだけに終始し、面倒な話はやめとくような「啓発記事」を半年余も作ってきたのは誰だったか。もちろん、これは独り朝日新聞だけのことではない。ほぼ全部のマスコミ、教育機関に共通している。

 芥川龍之介は、昭和二年(一九二七年)、三十五歳の若さで自ら命を絶った。普通選挙・治安維持法の成立から二年後のことである。自殺の理由は「将来に対する唯(ただ)ぼんやりした不安」(「或旧友へ送る手記」)だとされる。それが具体的に何なのかは、それこそぼんやりとしていてよく分からない。しかし、芥川を「敗北の文学」と見た宮本顕治は、民衆を信じ切れない弱さが「不安」なのだと指摘した。この指摘はけっこう当っているような気がする。その証拠に「強い」宮本は、共産主義者として実に十二年間の獄中生活に耐え、戦後は共産党の最高指導者として当年九十九歳の長寿を全うした。

 芥川には「レニン(レーニン)」と題した連作箴言(しんげん)がある。その第三にこうある。

  誰よりも民衆を愛した君は

  誰よりも民衆を軽蔑した君だ

 民衆を組織し君臨しえたレーニンの本質を見抜いた芥川が時代の「不安」を感じたのだと、私は思う。

「特別読物 『ポピュリズム』すなわち愚民主主義について――呉智英(評論家)」より

週刊新潮 2016年6月9日号掲載

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