樋口毅宏 男の子育て日記「おっぱいがほしい!」その3

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小説家・樋口毅宏さんは結婚を機に京都に移住した。弁護士として活躍する奥さんに代わり、日中は樋口さんがつきっきりで子育てをしているという。そこで気づいた世の男たちの思い上がり、母になった妻の変化、子どもから教えられることの数々。週刊新潮で連載が始まった「おっぱいがほしい! 男の子育て日記2016」の期間限定、特別配信です。

 * * *

(イメージ)

 月 日

 これまでの僕は、朝に寝て昼起きる生活をしてきた。

 他人からは不規則な生活に見えるだろうが、毎日ほぼ同じ時間に八時間きっちり眠るので、起きている間はずっと頭がはっきりして、十分なパフォーマンスが可能だった。

 それが(前回も書いたけど)僕と妻と同じベッドに赤子を寝かせているため寝返りが打てず、オムツ交換とミルクのため、否が応でも三時間おきに起こされる生活に変わった。

 ごはんのときは、とにかく赤子がおとなしいうちに済ませようと、どうしても早食いに。赤子のあやしすぎのため腱鞘炎と筋肉痛に耐えながら、「子育ては体力だ」とばかり、食べる量が増えた結果、二ヶ月で四キロ増量した。

 妻はもっと酷い。

 妻は妊娠中、食べづわりだった。通常の悪阻(おそ)が無かった。あれは妊娠三ヶ月目あたりだったか、自分で作ったカレーライスを立て続けに四杯おかわりしたことがあった。何かに取り憑かれたような目をしていて、「ここで止めたら殺される」と思った。

 妻の異常とも言える食欲は出産まで止まらなかった挙げ句、体重は二十キロ増加した。

 改行してもう一度書くよ。

 二十キロ。

 血圧が上がらなかったとはいえ、医師は呆れただろう。夫の僕はもっと呆れた。

「赤ちゃんにおっぱいをあげていくうち、激やせするんだって」

 妻はそう言ったが、そもそもの体重は五十三キロ→出産時七十三キロ(夫より重い)→ジムに週二回通って六十二キロ←イマココ。

 大嘘つきめ。

 妻は授乳のため、妊娠中から現在まで、大好きだった酒を口にしなくなった。同じ理由から、風邪っぽくても薬を服用できない。

 今でこそどうにか慣れてきたが、最初の一ヶ月はふたりともボロボロで、四十四歳と三十九歳の新米パパ&ママは途方に暮れるばかりだった。

 妻は産後うつのせいか、「たけちゃん。後悔してない?」と何度も訊いてきて、こっちまでノイローゼになるかと思った。

 ……みんな、こんな大変なことをしてきたの? こんなに苦労して子供を育ててきたのに、それでも威張ったりしないんだ?

 よく聞くじゃないですか。仕事で外から帰ってきた夫が妻に、「おまえはいいよな。家でずっと子供と遊んでて。俺なんか外でくたくたになるまで働いて疲れてるんだ。泣かすなよ」

 それがいかに男の思い上がりか。よおくわかった。

 自分たちはふたり掛かりで子育てをしているが、母親ひとりでなんて想像ができない。育児ノイローゼになるのも無理はないのに、ネットではこんな声を散見する。

「シングルマザーになったのは自己責任だ。寝ないで働きながら育てろ」

「自分が欲しくて子供を作ったんだろう。福祉に甘えるな」

「親の愛情が足りないと障害児になる」

 怒りがこみ上げてくる。

 一方でこんな声もある。

「子供がいる人はエラい。いない人はかわいそう」

 もちろんそんな優劣はない。思い上がりも甚だしい。

 この連載コラムは、そうした双方の誤解や偏見を少しでも解消していけたらと思って書いています。

樋口毅宏(ひぐち・たけひろ)
1971年、東京都豊島区雑司が谷生まれ。作家。白石一文氏に見出され、『さらば雑司ヶ谷 』で小説家デビュー。他の著書に『民宿雪国』『タモリ論』など。

週刊新潮 2016年5月26日号掲載

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