王将2代目社長が初めて取材に応じて語った、疑惑の人物と社の関係 〈報告書が明らかにした「社長射殺事件」のキーマン(上)〉

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 意味ありげな情報が飛び交いながら、未解決のまま発生から2年が過ぎ去った「王将社長射殺事件」。突如、公開された報告書によってキーマンに浮上した創業家次男と、常に疑惑が取り沙汰されてきた人物とは如何なる関係なのか。元社長が初めて真相を語った――。

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餃子の王将

「大東さんは“自分が我慢すれば済むことです”が口癖で、社長を引き受けたのも創業者の息子たちに頼まれたからでした。就任当初は会社の業績も悪く、資金繰りもままならないため、いつも頭を抱えていました」

 意を決してそう語るのは、「餃子の王将」を展開する「王将フードサービス」の2代目社長・望月邦彦氏(79)である。創業者の故・加藤朝雄氏の右腕として勃興期の王将を支え続けた望月氏が、“事件”後、取材に応じるのは初めてのことだ。

 彼が大東さんと呼ぶのは、2013年12月に王将本社前で凶弾に倒れた大東隆行氏(当時72歳)。ご承知の通り、この“4代目社長”の射殺事件は、発生から2年以上が経過したいまも犯人の特定に至っていない。

第三者委員会の手掛けた全93ページに及ぶ調査報告書

 だが、ここに来て、未解決事件の捜査の行方を左右しかねない重要情報が、当の王将側からもたらされた。去る3月29日、同社が公開したのは、第三者委員会の手掛けた全93ページに及ぶ調査報告書である。王将が設置した第三者委員会には在阪の弁護士や税理士が名を連ねる。

 発生直後から、事件を追ってきたジャーナリストの一ノ宮美成氏によれば、

「この報告書のポイントは朝雄氏の次男で、元代表取締役専務の欣吾氏が、260億円に上る不適切な取引を主導してきた事実を明らかにした点です。しかも、取引先として挙げられたのは、かねてから疑惑が囁かれてきた人物でした」

 ご記憶の方も多かろうが、射殺事件を巡っては昨年末に大きな展開があった。新聞各紙が特ダネ扱いで報じたのは、現場付近に残されたタバコの吸い殻から、九州に本拠を置く暴力団関係者のDNAが検出されたという記事である。

 報告書はこうした報道を受け、王将が〈反社会的勢力と関係があるかどうかを確認することを目的〉として作成された。奇しくも、そこでクローズアップされたのが、創業家次男と疑惑の人物との間で繰り返された不透明な取引の実態だった。

■“こういうのは借りを作らないように”

京都にある餃子の王将本社

 京都と福岡を拠点に不動産業などを手広く営んできたその人物の名を、仮に村山祐一氏としよう。

 部落解放運動の大物(故人)を親族に持つ村山氏と王将創業家には、30年以上前から親交があった。まずは、創業者と村山氏との関係について、望月氏に振り返ってもらう。

「私が加藤(朝雄)社長と出会ったのは、アサヒビールの営業本部に勤めていた1977年のこと。まだ銀行が飲食業にお金を貸さない時代で、専らビールメーカーや食品メーカーが融資して、その代りに自社の商品を扱ってもらっていた。加藤社長がアサヒビールを訪れたのはその頃で、営業本部の総務課長だった私が対応しました」

 望月氏は、すぐに朝雄氏と打ち解け、以降、経営の相談を持ち掛けられる間柄となる。そして、78年に王将が東京進出を果たしてしばらく経ってからのことだった。

「加藤社長から“ちょっと骨のある若者がいるんだよ”と言われたのです。それが村山さんでした。加藤社長によると、郊外に大型店舗を出そうとしても、役所はなかなか許認可を下ろそうとしない。ところが、村山さんに頼むと話がスムーズに進むという。とはいえ、加藤社長が彼との関係に一線を引いていたのも事実です。“こういうのは借りを作らないように一回一回きちんと清算するんだ”と言って、お礼として大金を渡していました」(同)

 今でこそ全国に702店舗(昨年3月時点)を展開する巨大飲食チェーンも、その頃はようやく100店舗を超えた程度。村山氏による口利きが、店舗拡大の一助となったことは想像に難くない。

■創業者の死

 望月氏が続ける。

「93年6月に加藤社長が亡くなり、社葬が営まれた時も、村山さんには友人代表として葬儀委員をお願いしました。彼はその時に“加藤社長には大変な恩義があります。私には子供がいないので、今後は親代わりになって息子さんたちの面倒を見るつもりです”と話していました。私に対しては紳士的だったし、創業家想いという印象しかありません」

 村山氏は、創業者の死後に遺族が中心となって設立した“加藤朝雄国際奨学財団”にも、02年まで理事として名を連ねていた。

 だが、この人物との関係は、その後、王将の経営に影を落とすことになる。

 89年にアサヒビールを辞め、王将の副社長に就いた望月氏は亡くなった朝雄氏に代わり、2代目社長を務めたが、1年後にはその座を創業家に譲っている。

 そして、94年6月から長男の潔氏が代表取締役社長に、次男の欣吾氏が経理部長を兼ねた代表取締役専務に就任した。

 王将関係者によると、

「欣吾さんは、望月さんが社長の時代から経理担当でしたが、会社の実印は望月さんが持っていたので勝手な真似はできなかった。問題の取引が行われるようになったのは、欣吾さんが専務に就任してからです」

 事実、報告書によれば、その頃から金庫番の欣吾氏が主導した、村山氏の関連企業との取引が急増する。

 たとえば、95年4月には、

・村山氏の関連企業からハワイにある邸宅を約18億3000万円で購入。

 実はこの取引を前に、当時、会長職にあった望月氏は欣吾氏から相談を受けたという。

「欣吾さんは“村山さんからハワイの物件を買ってほしいと持ち掛けられているんです”と。私は、村山さんには世話になったし、バブルが弾けて大変だろうから一度は希望に応えてはどうか、と伝えました」

 しかし、望月氏が“一度”と戒めたにもかかわらず、欣吾氏は坂道を転がり落ちるように、村山氏との取引にのめり込んでいく。

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(下)へつづく

「特集 元社長に初インタビュー120分『王将報告書』が明かした未解決『射殺事件』キーマンは創業家の次男」より

週刊新潮 2016年4月14日号掲載

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