籠城から4日目、看護師たちに“光”が見えた〈原発25キロの病院に籠城した「女性看護師」の7日間(4)〉

国内 社会

  • ブックマーク

Advertisement

 2011年3月、福島第一原発事故が起き、南相馬市はゴーストタウンと化した。その中心部に建つ「大町病院」では、猪又義光院長ほか、看護部長の藤原珠世(当時52)、2階北病棟の師長・中山敦子(仮名、当時40)たちが病院に留まり、残された患者たちを必死に看護していた。籠城から4日目の3月18日には、誰しもが限界を感じ始め、“私たちはいつ避難できるんですか!”と院長に詰め寄る看護師たちもいた。

 ***

 この日を境に、大町病院は入院患者の搬送に向けて舵を切る。猪又は言う。

「屋内退避となってから、とにかく医療物資が入ってこなくなり、十分な医療が提供できなくなってきた。だから、患者全員の搬送を決意した」

 猪又が全国放送のテレビ番組に音声で出演、病院の窮状を訴えたことで、ようやくボランティアが駆けつけ、支援物資が届くようになった。患者全員の搬送が決定、看護師たちに“先”が見えたのは、籠城から4日目の18日夜のことだった。

ようやく始まった自衛隊による搬送

 19日には給食の委託会社が撤退。9人で調理していた給食を職員の管理栄養士2人で作ることになった。管理栄養士は言う。

「震災でエレベーターが止まって配膳ができなくなったので、11日夜に、閉まっている近所の店に頼み込んで、使い捨てのパック容器を確保しました。食材は冷凍や届けてもらったものがあったのでそれで献立を決め、患者と職員の分を1日400から550食は出してました。刻み食やミキサー食、とろみづけもちゃんと作りました」

 小児科の女医が厨房に入ってサポート、2人は給食室に泊まり込んで、患者と職員の食を支えた。

 朗報もあった。子どもを避難させた看護師2人が戻ってきたのだ。そのうちの1人の男性看護師は2階北病棟に残った中山たちを前に言った。

「2人には子どももいるし、今度もし、爆発したら俺が残るから。あんたらは患者さんを置いて逃げられないだろう。2人は帰りな」

 中山は泣いた。いつまた原発が爆発するかわからない恐怖と、隣り合わせの日々だった。

 藤原部長には忘れられない光景がある。18日昼、3階北病棟の師長が泣きながら、患者の死後処置をしていた。

「戦争と一緒、助けられる人を助けるという。痰を引かなきゃいけないんだけど、そういう人がいっぱいいて引ききれない。亡くなった方を横に向けたら痰がかぽっといっぱい出てきて、自分が足りなかったんだと思った。極限の中で、看護の判断をしていく。これが災害医療なのだと思う」

■「笑顔でがんばれる看護師でいたい」

大町病院に残った職員たち

 何が一番悲しかったか。

「亡くなっても、悲しいとならない自分が悲しかった。ああ、これで一人、手が抜けたと。医療従事者としてのプライドが崩れていく。でも次から次にやらなきゃいけないことが出てくる。正しいか正しくないかは、後の問題なんだと思う」

 19日昼、90名の患者が警視庁の護送バスで大町病院を出た。息を引き取りそうな患者の搬送を躊躇する藤原に、猪又の怒声が飛ぶ。

「ここはもう、治療すっとこじゃねえんだ!」

津波の被害、福島第一原発事故によってゴーストタウン化した南相馬市

 21日に患者全員の搬送が完了。大町病院はここで一旦閉院し、2週間後の4月4日に外来を再開。以来5年、地域医療の拠点としての歩みを続けている。

 藤原は言う。

「今も放射能が出ているし、ここで仕事をしろと言っていいのか、葛藤はある」

 正直な思いだ。しかし極限を生きた管理者として揺るがぬ思いがある。

「ここで仕事をすると決めた以上、私たちは笑顔でがんばれる看護師でいたい」

 病院に残った者と避難した者。どちらの選択が正しかったのか、誰にも答えはわからない。しかし、確かに言えるのは、あの時残った看護師たちがいたからこそ、そこで救われた多くの命があったということである。

(文中敬称略)

「特別読物 迫る放射能汚染! 医療物資搬入停止! 原発25キロの病院に籠城した『女性看護師』の7日間――黒川祥子(ノンフィクション・ライター)」より

黒川祥子(くろかわ・しょうこ)
1959年、福島県伊達市生まれ。東京女子大学卒業後、専門紙記者、タウン誌編集者を経て独立。家族や子どもを主たるテーマにノンフィクションを発表し続ける。主な著書に『誕生日を知らない女の子』(開高健ノンフィクション賞受賞)、『子宮頸がんワクチン、副反応と闘う少女とその母たち』など。橘由歩の筆名でも『身内の犯行』等の著作がある。

週刊新潮 2016年3月17日号掲載

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。