「キャンディーズ」は売れるずっと前から解散を口にしていた!

週刊新潮

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 普通の女の子に戻りたい、という名ゼリフを残して解散したキャンディーズ。と言いながらも、女優になるなど、普通の女の子に戻らなかったのは周知の通りだが、それはともかく、育ての親によれば、このトップアイドルグループは、かなり以前から「解散」を口にしていたという。

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 もっとも、キャンディーズを育てた作曲家の穂口雄右(ゆうすけ)氏(68)にあらためて尋ねると、この3人はトップアイドルどころか、

「デビュー当時は、まったく期待されてないグループだったんです」

 と言って、こう続ける。

「それを渡辺プロダクションの松崎澄夫さんと僕とで組んで、歌手として売り出すことにしたんです。誰からも期待されていなかったので、僕らは好き勝手な方向に、彼女たちを歌唱指導できました」

 と言うのも、意外な分野に導こうとしたそうで、

「アイドルではなく、プロのコーラスグループとして成功してほしくて、だから生半可ではないボーカルトレーニングをさせました。素人同然の3人には大変だったと思いますが、弱音を吐かずによくついてきてくれた。初めは音程を取るのも難しかったのに、歌唱技術はみるみる進歩しましたね。それでもなかなか売れませんでした」

 レコードだけで三十数億円を売り上げたキャンディーズの、これが駆け出しの姿だったというのだ。

「それが、少しずつ曲が売れはじめ、『春一番』の大ヒットで人気に火が付きました。すると、それまで彼女たちに期待していなかった事務所も商業主義的路線、要するに、よりアイドル色が強い方向へシフトしようとした。私は違和感を覚え、キャンディーズから離れたんです」

 そう語る穂口氏は、実はかなり以前から、こう聞いていたという。

「彼女たちは、まだ人気の出るずっと前に“自分たちの一番いい時に解散しようね”と話していました。海外のなにかのグループが解散したという報道を見て、雑談のなかで自分たちの解散を口にして、その言葉通り、絶頂期に解散を決断したんです」

■直前に変更された歌詞

 3人が突然、冒頭で紹介した言葉で解散を宣言したのは1977年7月、日比谷野外音楽堂におけるコンサートでのことだった。

「その後、松崎さんから私に、作曲の依頼がきました。アイドル路線を掲げていたキャンディーズが私に戻ってきたということは、ミュージシャンとして解散させてやろうということ。私は意気に感じて、ラストシングル『微笑(ほほえみ)がえし』を作曲しました。もともとコーラスグループをめざしていた彼女たちは、アイドル生活に嫌気がさしていたように僕は思った。だから、最後はカッコよく解散させてあげたくなりました」

 そのレコーディングにも秘話があるという。

「“春一番”で始まる『微笑がえし』の歌詞は、実は急に変更されたものなんです。作詞の阿木燿子さんが、ボーカルのレコーディング直前に新しい歌詞を持ってきて、“絶対こっちのほうがいい”と言った。それは過去のヒット曲のタイトルがちりばめられたものになっていて、いつもはあまり自己主張が強くない阿木さんの剣幕に押されて、新しい歌詞でレコーディングしましたが、大正解でした。久しぶりに会った3人は、下手っぴだったのがウソのように風格すら感じられた。だから、私は思い切ったことをしました。初見の楽譜をリハーサルなしでレコーディングさせたんです。3人は難なくやってのけ、私たちは感激して涙を流しました。当人たちはキョトンとしていましたが」

 3人が歌い納めたのは78年4月4日。チケットを買えなかったファン数千人が後楽園球場を取り囲み、1000人の警備員、400人の機動隊が動員される物々しさの中、彼女たちが響かせた最後の歌声は、たしかに昨今のアイドルとくらべれば、上等なものだったかもしれない。

「特別ワイド 吉日凶日60年の証言者」より

週刊新潮 2016年3月3日号掲載

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