尻込みする「そのまんま東」が「フライデー襲撃」首謀者になるまで

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 年の瀬の慌ただしさに人は駆り立てられるのか。赤穂浪士の討ち入りも、真珠湾攻撃も、奇襲は不思議と師走が多い。ビートたけし(69)が軍団11名を率いて、講談社の「フライデー」編集部を襲撃したのも、1986年の師走、9日未明だった。その一員の、いや、尻ごみしながら先頭を切らされた、そのまんま東こと東国原英夫氏(58)が、生々しく回想した。

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そのまんま東こと東国原英夫氏

 日付が変わる前後、自宅で酒を飲んでいた東国原氏のところに、たけしから電話がかかってきたという。

「師匠(たけし)は非常に興奮されていました。お付き合いしている子が『フライデー』に撮られ、記者と揉み合いになって、カメラかなんかが当たって顔からちょっと血を流して帰ってきた。もう殴り込みに行くぞ、ってことでした。その前に編集部と電話でやりとりがあったらしくて、“来いよ”“行くよ”と売り言葉に買い言葉になって、僕らが呼ばれたみたいです」

 たけしが直々に「フライデー」に電話するも、当初は詐称を疑われ、

「“コマネチ、コマネチ”ってやって、やっと向こうが信じたっていうんです」

 それはともかく、東国原氏は“襲撃”に消極的で、

「僕だけ冷めていて、引いて、俯瞰で見ていた」

 とのこと。であればこそ証言者に適任だが、その前に、なにゆえ消極的だったか語ってもらう。

「12月、1月は芸能界の書き入れ時です。師匠もレギュラー番組、10本くらいありましたかね。それに年末年始の特番も組まれている。暴力沙汰なんか起こしたらエライことじゃないですか。もう1点は、12月末に師匠抜きの軍団だけの番組が企画されていて、師匠から巣立つチャンスだったんです。さらにひとつは、僕は推理小説が書きたくて江戸川乱歩賞を狙っていたんですけど、その主催が講談社。殴り込んだりしたら、賞は一生獲れないから、“師匠、『フォーカス』の新潮社になりませんか”って言ったんです。そしたら“なんで『フライデー』に撮られて『フォーカス』行くんだ!”と」

 そんなわけで、たけしを含めて集まった12名のテンションが上がる中、“逃亡”を画策したそうだ。

「軍団のロケバスで一括して行くという話になったけど、それでは途中で逃げられないから、“みんな一杯ひっかけてて、誰が運転しても捕まったら元も子もないから、タクシーに分乗して行きましょう”と提案した。僕はしんがりとして3台目で、10分か20分遅れて行けば、先発隊が先に殴り込むと思ったんです」

 しかし、それは誤算で、

「講談社前で待ってるんです、先発8人全員が。“おい、ひがしーっ、遅かったな!”って。これはもう逃げられないな、と」

■「全員そう言ってる」

それでも、東国原氏は新たな方法を考案する。

「エレベーターが1機しかなくて、9人乗りで最大積載量600キロって書いてあるから、12人全員は乗れないなと。で、僕はエレベーターもしんがりで行こうとしたら、師匠が“お前、どうすんだ”。“次のエレベーターで行きます”って言ったら、“お前、逃げる気だな”って。“乗ったらブーッと鳴りますよ”と言ったんですが、“乗ってみろよ”と言われて乗るとブザーが鳴らない。で、僕は最後に乗ったから、5階に着いてドアが開いたら一番前なんです。待ち構えたカメラにカシャカシャと撮られて、翌朝の新聞に“東、先頭を切る”と書かれました」

 万事休して、大立ち回りが始まった。

「消火器や傘を使ったのは僕だという報道があったんですけど、最初に傘を振り回したのは柳ユーレイです。彼が相手を殴ったら傘が曲がって、針金が出ている傘は凶器だから、元通りまっすぐにして証拠隠滅しようとしてたら、警察に見られた。編集部員のフリして私服警官が3、4人紛れていたんですね。で、15分くらいして“それまで!”と声がかかった。有無を言わせず現行犯逮捕です」

 刑事が「みんな手錠だ」と叫んだ時のこと。

「師匠が“こいつら、みんな俺の言ったことは聞くから、わっぱだけは勘弁してくれないか”と言ったんです。カッコよかった。で、師匠が先にエレベーターに乗ってボソボソッと言った。“俺についてきてくれてありがとう、俺はお前らを一生面倒見る”。約束が守られているかどうかは別にして(笑)、このセリフは僕にとって一生の宝物です」

 その後、大塚署で取り調べが始まったが、たけしの求心力が東国原氏へのアダとなったのだそうで、

「警察の方が“お前がこの事件の首謀者らしいな”と言うので、僕はビックリしちゃって“みんなに聞いてください”と言ったら“全員そう言ってる”と。たけしさんに迷惑がかからないように、みんな“首謀者はそのまんま東です”って答えていたんです(笑)」

 釈放されると、軍団はしばらく伊豆で過ごした。

「僕は師匠には莫大な額を奢ってもらってますが、伊豆のころが中心で、旅館は1泊1万か2万したし、毎日のようにゴルフして飲み歩いていましたからね。ゴルフ道具も師匠のカードで全部買ってもらった。そんな師匠は、過密な仕事からの解放感と、みんなに迷惑をかけたという気持ちが半々だったと思います」

 軍団の11名は起訴猶予処分になり、たけしには翌年6月、懲役6カ月、執行猶予2年の判決が下された。その後、「フライデー」と親善草野球大会を開いた、たけしピッチャーの初球はデッドボール。和解の難しさを物語っていた。

「特別ワイド 吉日凶日60年の証言者」より

週刊新潮 2016年3月3日号掲載

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