「野坂昭如」夫人から見た“わいせつ裁判”“角栄への挑戦”“大島渚殴打事件”での夫

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 12月9日にこの世を去った野坂昭如さんと、元タカラジェンヌの妻・暘子(ようこ)さん(74)が結婚したのは、1962年のことだった。作家、歌手、タレントetc…と八面六臂の活躍をみせた野坂さんは、体を張った“直接行動”も厭わなかった。72年、雑誌に掲載した「四畳半襖の下張」がわいせつ文書販売容疑で摘発され、法廷闘争の末、80年に最高裁で有罪が確定。83年には参院議員に当選するが、半年後、田中角栄元首相に挑むべく職を辞し、旧新潟3区から出馬する。

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作家、歌手、タレントetc…と八面六臂の活躍をみせた野坂昭如さん

 あの「四畳半裁判」で、1つだけ覚えていることがあります。ある時、春なのに気温がぐんぐん上がって夏みたいな日に野坂が出廷したのですが、出かける時に見るからに暑そうな季節外れの毛皮のコートを羽織って行きました。それまでも公判の日には奇抜な格好をしていたので、目立つことで少しでも世間の関心を裁判に向けたい、との狙いがあったのでしょう。

 で、その日の夜、コートを着たまま帰ってきたのですが、「脱げなかった」とのことで、見ると背中に汗疹(あせも)ができている。裁判所の中で脱ごうと思っていたら、タイミングを逸して脱ぎそびれたというのです。よく我慢したものだなあと、今でも笑ってしまいます。

 政治については普段からよく勉強していましたが、実は新潟3区への鞍替え出馬は、なかなか決断できずにいました。あの時は本人も、

「カネと言葉との戦いだ。ぼくが出ることで、世の中に話を聞いて貰えたらいい」

 と言っていたくらいで、勝ち負けでなく問題提起が目的でした。まるでドン・キホーテだとも言われましたが、野坂の実父は新潟県副知事で、もともと角栄さんと縁があり、高校生の頃に新潟の家に角栄さんが訪ねてきて、父親に命じられて寝床の用意をしたなどと、よく聞かされていました。

 何も知らない人が無闇に挑むのではなく、そうした経緯もすべて承知の上で出馬するわけですが、本人は相変わらずグズグズしていた。だから食事の時に、

「何を恐れているの? 日本一のドンである角栄さんの胸を借りて『私はこう思う』って意見を言えるチャンスなのよ。出ればいいじゃない」

 とけしかけました。それでも、

「出れば後戻りはできない」

 なんてゴニョゴニョ言うものだから、

「あなたは物書きでしょ。目の前に開かれた大きな勉強のチャンスをものにしないで、どうするの!」

 結局、私が背中を押したというわけです。

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 大好きな酒が災いし、90年にはパーティーの壇上で大島渚さん(13年に死去)を殴打。大島さんもハンドマイクで応戦し、“事件”はすっかり有名になってしまった。

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■「日本は平和だな」

 野坂のパンチは格好よかったですけど、大島さんはマイクで殴り返してはダメですよ。でも、60歳と58歳になって、スピーチの順番という些細なことで腹を立て、人前で少年のように殴り合える男同士って羨ましい。それだけで魅力的です。

 翌朝、朝刊を読もうとしたら見当たらず、変だなあと思っていると、間もなくパーティーの場面がテレビで何回も出てきて、そこで初めて知りました。「昨日どうしたの?」と聞いたら、野坂は気まずそうに「うふふ」ってはぐらかして、そのまま逃げて行きました。たまたま世間の目に触れるところでやってしまったから大騒ぎになっただけで、あくまで2人の間では遊びだったのだと思います。

 あのシーンはこれまで、事あるごとに繰り返しテレビで流されてきて、もちろん野坂本人も見ていますが、感想はいつも一言、

「日本は平和だな」

 それだけでした。

「特別手記 四畳半裁判 田中角栄 大島渚殴打……私と『野坂昭如』 波乱万丈なる二人三脚――野坂暘子」より

週刊新潮 2015年12月24日号掲載

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