「タカラジェンヌなら誰でもよかったのでは」宝塚出身の夫人が語る「野坂昭如」との家庭生活

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 テレビの黎明期から才覚を現し、1967年に『アメリカひじき』『火垂るの墓』で直木賞を受賞。独特なリズムの文体と破天荒な振る舞いで唯一無二の存在感を放った野坂昭如さんが9日、85歳で旅立った。愛妻の暘子(ようこ)さん(74)が、売れっ子作家との出会いと暮らしを振り返った。

 トレードマークのサングラスをかけて棺に納められた野坂さんは、12日の午後、都内で荼毘に付された。53年連れ添ってきた暘子さんが初めて出会ったのは、宝塚歌劇団に在籍していた頃。その時もやはり、同じ姿で現れたのだという。

 最初はまったく彼のことを知らないまま、知人の紹介でお会いすることになりました。ところが、夜だったにもかかわらず黒いサングラスをしているのです。その時は、「きっとお目が悪い方なのだろう」と思っていました。そもそも当時、サングラスをしているのは、怖いお仕事の人くらい。しかも近眼で乱視だったから牛乳瓶の底みたいに分厚くて、余計にびっくりしました。もっとも、結婚してからは私がどんどん色を薄くさせましたけれどね。

 野坂は神戸育ちで、今でこそ「タカラジェンヌ」といえば女優さんの響きがしますが、当時の神戸の人たちにとって宝塚歌劇団は“お嬢さん育ちの人が花嫁修業をするところ”というイメージがあったのでしょう。同じ世代の男性、特に関西出身の方の中には、強い憧れを持っている人が多いのです。

 だから野坂も、タカラジェンヌなら誰でもよかったのではないか。そこにたまたま私と出会っちゃったということなのかもしれませんが、これは何しろ本人にしかわかりません。

 ちょうどその頃、彼は「女は人類ではない」と発言し、世間で物議を醸している最中でした。そこで、

「じゃあ私はなんなの?」

 と聞いてみたら、

「あなたは神様です」

 って……。勝手な話ですよね。

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 62年に結婚。翌年『エロ事師たち』で作家デビュー、さらに作詞した『おもちゃのチャチャチャ』で日本レコード大賞童謡賞を受賞と、野坂さんは時代の階段を駆け上っていく。

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シャイな自分を隠すため

 連日飲み歩いていましたが、遅い時間であっても家にはちゃんと帰ってきました。というのも、本当に売れっ子でしたから、朝起きてすぐ仕事をしないと間に合わない。編集者も原稿を取ろうと、社旗を付けた車で駆けつけ、家の前で待ち構えているのです。

 たとえホテルに逃げたところで、どうせすぐばれてしまうから、毎日仕方なく戻ってきたわけです。

 お酒といえば、サングラスと同じく“シャイな自分を隠すため”なんて世間で言われていた通り、野坂にとっては気付け薬のようなものでした。アルコールだったら何でもよく、酒瓶を隠したら台所の料理酒まで空になっていたこともあります。「ぼくは依存症だ」と自分で認めるのですが、やはり気が弱いということなのだと思います。どちらかといえば繊細ですし、戦後、全てが自分の周りからなくなり、独りで生きていかなければならなくなった時に、強く生きていこうと自らを奮い立たせることが難しかったのかも知れません。

 それでも家庭では、本当に丁寧な人でした。私は、名前を呼び捨てされたり「おい」なんて言われたことは一度もなく、結婚当初からずっと「あなた」と呼ばれていました。元来育ちは良い人で、食事の作法も実にスマート。養子に行った先の神戸のお宅でも、相当に厳しく躾(しつ)けられたのだと思います。

週刊新潮 2015年12月24日号掲載

「特別手記 四畳半裁判 田中角栄 大島渚殴打……私と『野坂昭如』 波乱万丈なる二人三脚――野坂暘子」より

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