【「田中角栄」追憶の証言者】番記者たちが涙した栄光と挫折――元田中派番記者

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 類稀な才覚で権力の階段を駆け上がった「今太閤」は、ロッキード事件後も「闇将軍」として影響力を誇示したが、最後は子飼いの議員にすら背かれ、失意のうちにこの世を去った。その人生をつぶさに見つめてきた「番記者」が、栄光と挫折の日々を振り返る。

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田中角栄

 最古参の“田中派番”の1人、元時事通信の増山榮太郎氏(85)はこう語る。

「田中は岸内閣で郵政相に任命されたけど、30代での大臣就任は戦後初。まもなく政調会長に抜擢され、“これは大物だ”と各社が番記者を置くようになった。それまでは派閥の領袖クラスにならないと番記者なんてつけなかったからね」

 当時の角栄の印象は“派手な遊び好き”だった。

「後に秘書になる佐藤昭(あき)が働いていた、新橋のキャバレー『ショーボート』が行きつけで、番記者を引き連れて遊び歩いた。金遣いは滅法荒く、ダンサーにまで1万円のチップを渡すんだ。元外相の椎名悦三郎が咎めても、角栄は“俺は集まったカネを溜めずに、ばら撒いているだけ。札束が俺の目の前を流れてるんだ”と言って聞かなかった」(同)

 その後、総理の座へと上りつめた角栄は、日中国交正常化交渉に臨む。特別機に同乗した、元読売新聞の中野士朗氏(81)は機中での会話を鮮明に記憶している。

「揚子江の流れを見下ろしながら“なぜ中国に行くんですか”と尋ねたのです。すると、角さんは“運命だからだ”と短く答えた。タラップを降りて、周恩来と火花の散るような握手を交わした時はカッコよかったですよ。歴史的瞬間を目撃したという感慨を覚えました。ギリギリの交渉が続くなか、角さんだけがマオタイ酒を飲んで悠然としている姿も印象的でした」

 一方、その人心掌握術は番記者をも魅了した。

「目白の田中邸に詰めていたら、角さんが電話で“通常国会は12月21日にするぞ”と話し始めた。そして、受話器を置くや、私に“君、いたのか。誰にも言うなよ”と言うんです。もちろん、特ダネだと思って急いで国会に向かったんですが、黒塗りの車が追いかけてきてね。よく見ると角さんが乗っていて“20日になった。間違えたらいかんからな”。ただの金権政治家だと思っていた角さんのイメージが一気に変わりました」(同)

 だが、ロッキード事件で退陣を余儀なくされると、

「角栄にとってマスコミは敵になった。“君らはマムシだ”と罵られたよ。それでも、こっちが追いすがると“おい、マムシ!”と呼び寄せて取材に応じる。そういう人間的魅力があった」

 とは、元毎日新聞の長崎和夫氏(72)の弁。角栄は復権を目指したが、派内の混乱は収まらず、1985年に竹下登らが創政会を結成。新潟日報社の小田敏三社長(65)によれば、

「当時、佐藤昭さんから“オールドパーのボトルを毎日1本空けている”と聞きました。角さんは、4歳で亡くした長男と同い年の小沢一郎の裏切りが最も許せなかったようです。まもなく酒浸りの生活が祟って、脳梗塞で入院してしまう。角さんが倒れた晩は、田中直紀を囲む会をセットしていたのに、待てど暮らせど来ない。夕方に角さんが東京逓信病院に運び込まれたわけだから当たり前ですよね。それに気付けなかったのは番記者として一生の不覚です」

 角栄は表舞台から完全に姿を消し、93年12月16日に死去する。享年75。追憶の人となった今も、これほど語り継がれる政治家は角栄を措いて他にいない。

「ワイド特集 再び振り返る毀誉褒貶の政治家の魅力的実像 二十三回忌『田中角栄』追憶の証言者」より

週刊新潮 2015年12月17日号掲載

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