大村崑「がん……がんて、僕はコンですけど……」 がんに打ち克った5人の著名人(1)

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 俗に、渡る世間は丁目と半目、善いと悪いは一つ置きと言う。ステーキ店で場違いな告知を受けたコメディアン、多重がんを撥ね返した女優。がんとの遭遇は悲劇だが、得たものは大きいとみな口を揃えるのだ。40代から80代まで、有名人5人による「がんとの闘争譚」。

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大村崑さん

 物事には光と影、あるいは表と裏があると言う。同様に、人の好意また行為というものは時に厄介でお節介だが、振り返ってみると、それに手を合わせたくなることがあるのだ。

 極端にずれた黒縁眼鏡に人を食ったような視線。「元気ハツラツ! オロナミンC」でおなじみのコメディアン、大村崑さん(84)がまさにそういう体験をしている。傘寿を過ぎてもなお肌ハツラツの大村さんが悲劇に見舞われたのは、1989年、58歳のときだ。

「新宿コマ劇場でお仕事をしていた際、共演者の紹介で、大学病院のお医者さんと親しくなりました。その先生が、僕に大腸の内視鏡検査を勧めるんです。お尻にカメラを入れられるのはゴメンだと断っていたんですが、半ば無理やり検査されることになりました」

 内視鏡検査の前段階として、注腸検査が行なわれた。バリウムをお尻から注入した上に空気を入れてレントゲン撮影。バリウムがお尻から漏れそうになるなど、七転八倒した。

 その1週間後、この医師から浅草のステーキ店に誘われた。

 ステーキがテーブルに運ばれてきたというのに、医師は先日撮影したレントゲン写真を鞄から取り出し、蛍光灯に透かして話し始めたのである。

「白いのが4つあるでしょ。これね、がんかもしれない」

「がん……がんて、僕はコンですけど……」

 口ではそうボケていても、“場違いな告知”が大村さんに与えた衝撃はむろん大きかった。

「血の気が引いたせいか、美味しそうな肉のはずなのに、灰色のアルマイト(処理された弁当箱)のようにしか見えなかった」

 実はこのレントゲン写真、別の若手医師の診断では異常なしだった。しかし経験を積んだこの医師の目は、“白い影”を確実に捉えたのである。

 思い当たる節もあった。当時、便に糸状の血液が付着することが何度かあったからだ。その夜は悪いことばがりが頭に浮かんだ。

〈俺はこの歳で死ぬのか、死んだら女房はどうするのか、子どもらは……〉

 数日後、その医師の紹介で新谷弘実医師を受診した。新谷医師はレーガン米大統領を手術した医療チームのメンバーで、内視鏡治療の先駆者。そのころ、東京・赤坂の前田病院で時折治療を行なっていたのだ。

 ポリープ切除は無事終わったのだが、麻酔から覚めて驚いた。「起きて」と頬を叩くのは瑤子夫人だった。

「心配させるからと呼ばなかったのに、“なんで”と。女房を呼ぶくらい、がんは進んでいたのかとも思いました」

 これを受け、夫人は笑いながらこんな打ち明け話をする。

「うわごとで、私の名前ではなく、『サチコ』とかいう女性の名前を言っていました。アレ、誰のこと?」

「知らんよ、そんな名前」

 名前の謎はいまも解けないままだが……。切除した4つの大腸ポリープのうち2つはがん化していたものの、幸いなことに初期だった。それから毎年検査を受け続け、これまで再発などはない。

「あれから、1日7~8時間は寝ること、よく噛み食べ過ぎないこと、冷たい物を食べないことに気をつけています。だからか80歳を過ぎているのに、若いって言われます。これもあのとき検診を無理やりでも受けたお陰ですよ、感謝です」

「特別読物 がんに打ち克った5人の著名人 Part2――西所正道(ノンフィクション・ライター)」より

大村崑 コメディアン・俳優
1931年生まれ。57年に、大阪・北野劇場専属コメディアンとして舞台デビュー。99年、兵庫・丹波に『崑の村』を立ち上げた。

西所正道(にしどころ・まさみち)
1961年奈良県生まれ。著書に『そのツラさは、病気です』、近著に、がんを契機に地獄絵に着手した画家を描いた『絵描き 中島潔 地獄絵一〇〇〇日』がある。

週刊新潮 2015年12月10日号掲載

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