【「田中角栄」追憶の証言者】4000人規模「田中派葬」で守ってくれた「父との約束」――石破茂(地方創生担当相)

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石破茂大臣

 石破茂大臣(58)の父親は、鳥取県知事や自治大臣を務めた石破二朗氏。彼は10歳下の田中角栄と交誼を結び、人柄に心酔していたというが、その葬儀を巡るエピソードは人々の心を揺り動かさずにおかない。

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 私の父親は1981年の9月16日に他界しましたが、その1週間くらい前に「田中に一目会いたい」と言う。それを田中先生にお伝えしたら、すぐに父が入院していた鳥取市内の病院まで飛んで来られましたよ。

「最後の頼みだ。葬儀委員長をやってくれ」と父に言われた田中先生はその足で当時の鳥取県知事に会い、「私は石破君から葬儀委員長を頼まれたが、石破君は知事を4期15年もやった実績から言って県民葬になるだろう。葬儀委員長は君がやってくれ」と依頼し、葬儀では友人代表として弔辞を述べるわけです。

「葬儀委員長をやると約束したのに、君の実績ゆえこうして県民葬になった。友人代表として弔辞を述べることを許してくれ」

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 涙ながらにそう語りかけていましたが、普通であればそれで義理を果たしたと思うでしょう。

 ところが後日、私が目白まで行ってお礼を言ったら、

「おい、あの葬式には何人来たんだ」と聞かれるので、「確か3500人だったと……」と答えたら、すぐに秘書の早坂茂三さんを呼んで、「4000人集めろ! 青山斎場を予約しろ」と言い出しましてね。私が「な、なんですか?」とおずおず尋ねると、「お前の親父と約束したんだからな。俺が葬儀委員長で葬式をやるぞ」と言うのです。それが、最初で最後の「田中派葬」と言われるものになりました。派閥が主催する葬式なんて聞いたこともないね。父は大臣までやっているから、自民党葬でもよかった。ただ、党葬にしていた場合、葬儀委員長は時の総理大臣、鈴木善幸先生になっていたでしょう。そこで田中派の衆参両院議員全員が発起人になってね。田中先生は葬儀委員長として泣きながら弔辞を読むのです。

「石破君、きみとの約束を俺は今日、こうして果たしているぞ」

 こういうことは権力さえあればできる、金さえあればできる、というようなものではない。それを超えた何かがあったんだろうね。発想力や決断力、いずれも常人の及ばざる類まれなるものがあった。私は、田中先生は人間じゃない、「魔神」だと思っている。

田中角栄

 この「田中派葬」のお礼を言いに再び目白まで行った時、父の跡を継いで政治家になるよう田中先生に言われるわけですが、その頃、私はまだ24歳。父は参議院議員で、参議院の被選挙権年齢は30歳でしょう。すぐに跡を継いで選挙に出られるわけではないのでそう答えると、田中先生は、「誰が参議院に出ろと言った、衆議院だ!」と仰った。「再来年は衆参ダブル選だ、その時はお前も26だろう!」、そして、「いいか!」と言って机をバシーンと叩くのです。

「この日本で起こることは全てこの目白で決めるんだ、分かったか!」

 これはすごかったね。私も24のあんちゃんだから、たじろいでいるとさらに、

「君は自分さえ良ければそれでいいのか! 君の父親は県知事15年、参議院議員7年。君が跡を継がなかったら、これまで応援してくれた地元の人に申し訳ないと思わないのか!」

 そうまくしたてられ、「考えさせて下さい」と答えるのが精一杯でした。

 田中先生がいなかったら、私は間違いなく政治家にはならなかった。それは100%言える。今頃、あの世で父と田中先生はどんな話をしているのかなぁ……。

「ワイド特集 再び振り返る毀誉褒貶の政治家の魅力的実像 二十三回忌『田中角栄』追憶の証言者」より

週刊新潮 2015年12月17日号掲載

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