【「原節子」の後半生】ナチス「ゲッベルス宣伝大臣」と会談もあった世界一周旅行

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 1937年3月。満州国が建国された同じ月に、原節子は船と鉄道を乗り継いで渡欧。続いてアメリカ大陸も横断し、世界一周を果たして帰国している。その間、ドイツではナチスの宣伝大臣、ヨーゼフ・ゲッベルスと談笑していたのだ。

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 日独防共協定が締結されたのは1936年11月。それに合わせるように日独合作映画が企画され、アーノルド・ファンクという監督が訪日した。

「ナチスの党大会のドキュメンタリー『意志の勝利』を監督したレニ・リーフェンシュタールを、女優デビューさせた監督です。『新しき土』、ドイツでは『サムライの娘』と呼ばれた合作映画の主演女優を誰にするか、田中絹代をはじめ候補が挙がったようですが、ファンク監督が京都の撮影所で、まだ16歳にもなっていない原節子を一目見て、彼女に決めたのです」(映画評論家の西村雄一郎氏)

 この映画は37年に日本で公開されてヒットし、続いてドイツでも、それまでの記録を塗り替える600万人を動員するほどの人気を集めたというが、言うまでもなく、人気を煽ったのはナチスである。映画評論家の佐藤忠男氏が言う。

「日独防共協定を結んだ相手である日本のイメージアップを図るのがナチスの目的で、そのために美しい日本女性を世界に紹介できればよかった。大和撫子役を演じた原節子は、見事にその大役を果たしたのです」

 だが、その前に、映画の封切り直後の37年3月、原はナチスの招きで、義兄で映画監督の熊谷久虎らとともに、4カ月にわたる世界一周の旅に出ている。

ディートリッヒとも

 海路、日本を発ったのが3月10日。シベリア鉄道を経由して、黄色い着物の上に赤いコートを羽織った原がベルリンのシュレージエン駅に降り立ったのは、26日の朝だった。

「その後、日本大使館主催のパーティが開かれ、そこにゲッベルス宣伝大臣も出席して、原と親しく歓談しているのです」

 と説明するのは西村氏だが、すかさず、

「第二次世界大戦が始まる前は、日本人の間でナチスの評判はよく、ましてや16歳の原節子が、ナチスの息がかかった映画に出たからといって、自責の念にかられることはなかった」

 と佐藤氏がフォロー。ところで、同氏によれば、

「ゲッベルスは日記で、この映画について“もっとうまく作れなかったか”と発言していました」

 とのこと。原一行はその後、大西洋を渡り、アメリカを横断して7月にロスアンジェルスに到着。スタンバーグ監督にハリウッドを案内されたのち、マレーネ・ディートリッヒとも食事を共にしたが、映画は監督に酷評されたという。

 7月末の帰国前、ハワイを発ったところで船上の原にもたらされたのが、盧溝橋事件の知らせだった。戦争前夜の優雅な数カ月。苦難の少女時代を送り、引退後は引きこもってしまった原節子にとって、その半年は生涯で最も優雅な日々だったのかもしれない。

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目次〈1〉

目次〈2〉

週刊新潮 2015年12月10日号掲載

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