【「原節子」の後半生】同居の甥が語る「毎日」と「日経」を隅から隅まで読んでいた

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 隠棲すなわち世捨て人、というわけでは決してなく、知識欲に駆られるまま新聞や書物を貪り読んだり、ある時は心安い旧友のもとをふらりと訪ねたり……。その後半生は、ひたすら“一般人の視点”に徹した日々だったという。

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 現役時代の原節子が全幅の信頼を置いていたのが、結髪師として数多の女優の芝居を支えてきた、中尾さかゑさんという女性であった。

「当時は結髪さんが付き人のように何でもこなす時代でした。年齢は原さんより1つ上で、東宝時代からの長い付き合い。原さんを『せっちゃん』と呼べるのは中尾さんくらいで、フリーになって松竹に出演する時も、本来なら専属の人を使わなければいけないところ、原さんは特別で、いつも中尾さんを連れてきていました」(当時を知る映画関係者)

 200本以上の結髪を手掛けた中尾さんは、1991年に日本アカデミー賞の「協会特別賞」を受賞。が、その6年後に78歳で亡くなってしまう。

 その間も、変わらず親交は続いていた。さかゑさんの息子の妻によれば、

「原さんは引退してからも、時々世田谷の義母のところに遊びに来てくださいました。特に変装したりとか身を潜めたりという素振りもなく、そのままの姿でいらっしゃって、昔話で盛り上がっていました。義母が入院した時も何度かお見舞いに来てくださり、“せっちゃん”“さかゑちゃん”と呼び合って、2人の世界に入っている様子でした」

 その盟友が没した後も、

「電話でお話しすることが何度かありましたが、本当によく本を読まれていて、会話をしていると、知識や考えの深さが伝わってくるようでした」(同)

 というのだ。

病院嫌いだった

 そうした振る舞いは、一朝一夕に身につくものではなかろう。前出の甥にあたる熊谷久昭さんによれば、晩年はもっぱら、

「新聞やテレビでニュースを見て、読書もよくしていました」

 とりわけ新聞は、

「『毎日』と『日経』を購読していました。ともかく大好きで、端から端まで読んでいましたね。日経の経済面なんか、特によく目を通していて……。本人が株をちょっとやっていて、詳しくは知りませんが、損したり儲けたり、だったのだと思います」

 また読書についても、やはり新聞が“起点”となるようで、

「書評欄に載った新刊本のタイトルを見て、気になったものを購入しては読んでいました」

 その知識欲は衰えるどころか、年齢とともにエスカレートしていったという。

「80代の頃は足もしっかりしていて散歩に出かけていましたが、90を過ぎてからは外出しなくなった。それでも8月に入院する直前までは、サラダやカレーなど簡単な料理は自分で作っていました。家でご飯を食べて、あとは日中を読書に充てる、という暮らしでしたね」(同)

 日々、活字と格闘していたわけである。

 小津作品『秋日和』『小早川家の秋』で共演し、亡くなる直前まで親交のあった女優の司葉子さん(81)は、訃報を受け、

〈原さんは凄い読書家で、1日の半分は読書だったのではないかと想像します。新聞も隅々まで、世の中の情勢もしっかり受け止めていらっしゃいまして、話が止まらないくらいでした〉

 との談話を寄せた。再びご本人に聞くと、

「いつも家にいらして、すぐ電話に出てくださるので、半年に一度くらい毎回1時間ほど、私の予定がない時に気ままにかけていました。昨年お話しした時には、自宅でお花に水をやる時に体勢を崩して骨折されたとのことで、『自宅で治したの』と、明るく仰っていました。病院嫌いだったので極力避けていたようですが、肺炎になっても病院を我慢され、ご体調を悪化させたのではないでしょうか」

 そう慮(おもんぱか)り、

「亡くなったと聞いてお電話してみたのですが、すでに回線は止められていました」

 幅広い薀蓄も、聞き納めとなってしまったのだ。

「特集 総力取材! 実の姉が告白! ロマンスの目撃者! フェイドアウトの真実! ヴェールを脱いだ『原節子』隠遁52年間の後半生」

『原節子のすべて』新潮45特別編集 DVD付録付き

目次〈1〉

目次〈2〉

週刊新潮 2015年12月10日号掲載

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