患者からの贈り物は断ってはいけない!? 臨床医の体験的コミュニケーション論

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 病院でよく目にする張り紙の一つが、

「医師、看護師への贈り物などは固くお断りします」

 というもの。

「受け取ると、そういうものを渡さない人と差をつけるみたいに誤解される」

「渡したことで“特別扱い”を勝手に期待されてしまうので困る」

「お断り」の背景には医療関係者側のこうした考えもあるようで、かつては、お医者さんに若干の「謝礼」を包むことは珍しくなかったが、最近ではそういうことも少なくなったようだ。

 しかし、そんな風潮に異を唱えるのが、臨床医の里見清一氏である。里見氏は新著『医者と患者のコミュニケーション論』で、「贈り物は受け取らねばならない」と述べている。

「とんでもない奴だ!倫理観はどうなっているのか」

 と憤る人もいるかもしれないが、その真意はどこにあるのか。同書から引用してみよう(なお、引用文は里見氏が研修医に向けて講義で話しかける体裁となっている)。

 ***

■贈り物には理由がある

 研修医諸君、ここで私のコミュニケーション術の奥伝とも言うべき秘法をお話しする。臨床医の極意だと思ってもらって結構だ。

 君たちが病棟を回診している時など、たまに患者さんや家族が、食べ物や飲み物を勧めてくれることがあるだろう。そういう経験をした者は ……3分の1くらいかな。まあいい。いずれそのうちある。その時、すぐに礼を言い、もらい受け、そして可能な限りその場で、つまり勧めてくれた患者や家族の目の前で、食うもしくは飲む。これこそが極意である。

 ふん。狐につままれたような顔をしているのが多いな。だがこれを聞いてすぐピンときた者は、それだけでよき臨床医になる素質がある。

 もう少し一般的な言い方をすると、患者や家族からの贈り物は決して断るな、有難く頂戴しろということだ。なに? 病院のあちこちに、贈り物は固くお断りしますと書いてあるだと? そうだ。別に私は、患者にものを要求しろとか、何かくれと言えとか唆しているのではない。くれないならくれないでいい。ただ、あの貼り紙を見て、それでも患者が何か差し出してくるのには、それなりの理由があるのだ。それを断って良いことなど一つもない。

■たかが缶コーヒー、だが

 これから紹介する話は何度も書いたことがあるのでごく簡単に言う。私が若い頃、ずっと診てきた患者さんが骨転移により身動きできなくなって、近くの病院に入院されたのを見舞ったことがある。予告なしに訪れた私に対して、患者さんは驚きかつ喜んでくれた。そこで「何もないのですが……」と差し出された缶コーヒーを、私は飲まずに断ってしまった。私にとって、人生の痛恨事である。

 どうした。やはり分からないか。この話を聞いて、「どうして断ったんだ」と訊ねてくれた人は、今までに数人しかいない。話の途中で、「なんで飲まなかったんだよ」と突っ込んだのはわが編集者だけだった。あとはみんな、今の君たちみたいだった。

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 ちょっと前に流行った言葉を使えば、「おもてなし」である。おもてなしは、「する」側が「される」側を喜ばせるのが主眼なのではない。「される」側が、きちんと受けることによって、「する」側が喜ぶのである。

 あの患者さんは、自分が出来る精一杯の「おもてなし」をしようとしたのに、私は退けてしまった。断られたことで、患者さんは、これが「たかが缶コーヒー1本」なのだという現実に引き戻されたのだ。そのことで、思うように動けないご自分の惨めさを改めて思い知らされたに違いない。私はなんと残酷な仕打ちをしてしまったのか。

 10年以上たってから、私にリベンジの機会が訪れた。車椅子で外来に来られた患者さんが、診察室に入るなり、手に持っていた缶コーヒーを「先生、飲むかい?」と言って差し出されたのである。私は実のところ、コーヒーは嫌いなのだが、その時は「あ、有難うございます」と礼を言って受け取り、飲みながら診察をした。

 患者さんが診察室を出た後で、車椅子を押していた息子さんだけ戻って来て、「コーヒー飲んでいただいて有難うございました」とニッコリ笑って言われた。だからリベンジは成ったらしい。ただ私は、あまりに似通った状況の再現に一瞬戸惑った自覚があり、「自然に」受け取って飲めていたか、やや心許ない。

■出されたものを目の前で平らげる意味

 山口六平太、というマンガを知っているか。「ジャガイモみたいな」風貌の総務課所属サラリーマン六平太には、社長秘書をしている恋人小夜子がいる。小夜子に見合い話が持ち上がり、エリートのハンサムが家にやってくる。しかし小夜子の両親はその見合い相手に不満で、ちょくちょく家にやってくる六平太の方がはるかにいいと言う。なぜか。小夜子の母親が作って出した料理を、見合い相手は丁寧に礼を言い、かつ「おいしいです」と褒めるのだが、遠慮してかほとんど手をつけない。六平太は、嬉しそうな顔で盛大に「食べてくれる」のである。

 私も時々ナースやレジデントを連れて食事に出かけるが、またこいつにおごってやろうと思うのは、とにかく喜んで、しっかり食べる奴だ。これは店の側も同じで、ある時、出された料理をいたく気に入った大喰らいのレジデントが、「まだないのか」と催促し、主の婆さんが自分のためにと残しておいたものまで出させて平らげてしまった。その時婆さんは、私が見た中で一番嬉しそうな顔をしていた。

 安倍首相夫人の昭恵さんは、東南アジアに出かけて、外の屋台や路上で差し出された物を、笑顔とともにその場で食べるのだそうだ。アッキー夫人には毀誉褒貶があるようだが、この一事に関しては文句なく尊敬に値する。国家への貢献度も測り知れない。缶コーヒーでおたおたした私とは雲泥の差である。

 衛生面が気になるところで、出されたものを断ったらそれは「汚らしいもの」、喜んで食べたらそれは「結構なおもてなし」になるのである。人権だ平等だと百万回唱えるよりも、この行動は遥かに説得力を持つ。

■看護部は頭が固い?

 心をこめたおもてなしと、付け届けとしての贈り物は違う、だと? 同じだよ。

 私の娘は早期破水で生まれて来たので、入院も長かった。ようやく退院となった日、ナースステーションに菓子折りをもってお礼に行ったが、スタッフは頑として受け取らなかった。「お気持ちだけで結構です」の挙句、「ご家族のみなさんで召し上がってください」だとよ。世話になった感謝の念が一気に萎えたね。

 もと同僚のH先生とある研究会でご一緒した時に、全く同じ思いをした、と聞かされた。H先生のお子さんは三つ子ちゃんで、さぞ大変だったことだろう。なのに無事退院の時に持って行った菓子折りを拒絶され、先生は病棟の出口にあるゴミ箱に投げ込んで帰ったそうだ。

 大体において、医者はまだナアナアが利くのだが、看護部は頭が固い。話によると、看護部の指揮系統は軍隊と同じだそうで、旧帝国陸軍の名残を最も強く残している組織らしい。融通が利かないはずだな。ただ私がこの間まで所属していた病院では、教育が行き届いて、素直に手を出すようになっていたぞ。可愛い看護婦さんが笑顔で受け取ってくれて、「有難うございます」と礼を言われれば、みんなハッピーになるだろう。これ見よがしに捨ててお互いに不快な思いをするのと、どっちがいいか。

 世の中の常識から考えてみたまえ。何か頼み事をするのに、もしくは世話になるのに、手みやげの一つや二つ、下げて行くのは当然だろう。「向こうもそれが仕事で給料もらっているのだから個人的にどうこうする必要はない」なんて発想の人間とは、あまりつきあいたくないな。

 ***

「缶コーヒーや菓子折りはともかく、現金はどうなのか?」といった疑問を持つ方も多いことだろう。これについても里見氏は同書の中で持論を展開している。『医者と患者のコミュニケーション論』は、とかくこじれがちな医者と患者の関係について大きな示唆を与える一冊である。

デイリー新潮編集部

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