【ノーベル賞】アフリカ大陸を救った「大村智」特別栄誉教授の250億円人生

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〈平成の野口英世〉〈年間3億人を救う男〉――。ノーベル医学・生理学賞を受賞した大村智(さとし)・北里大特別栄誉教授(80)を称賛する声は止むことがない。稀代の科学者はいかにして生み出されたのか。彼の人生の軌跡を辿ってみると、偏執的とも思えるこだわりと強い意志を持つ超科学者生活の傍らで、妻と娘思いの家庭人の姿を見せるなど、重層的にして魅力的な素顔が浮かび上がってくるのだった。

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ノーベル医学・生理学賞を受賞した大村さん(中央)

 大村さんによって発見・開発された寄生虫病用の薬「イベルメクチン」は、アフリカなどの熱帯で猛威を振るい、多くの人を失明に追い込んできた「河川盲目症」の特効薬として、今では毎年3億人に服用されている。その功績は、どんな言葉を並べて褒(ほ)め称えたとしても決して大袈裟とは言えまい。しかし、

「家で勉強している姿を見たことがない。まったく、いつ勉強していたんだか。私が聞きたいくらいです」

 と、大村さんの姉の山田淳子(あつこ)さん(81)は、弟のノーベル賞受賞どころか、大学に入れたことすら、今もって不思議なのだと言う……。

 大村さんは養蚕などを生業とする山梨県韮崎市の比較的恵まれた農家で、父・恵男(よしお)さんと母・文子(ふみこ)さんの間の、5人きょうだいの長男として生を享(う)けた。地元の公立小中学校を経て、韮崎高校から山梨大学に進学。長閑(のどか)な田舎町で育った。

「私たちの父は家で飲み、その後、街に飲みに行き、帰ってきてもう一升飲むような大酒飲みでした」

 こう振り返るのは、大村さんの4つ下の弟、朔平さんだ。

「あまりに飲兵衛(のんべえ)だったから、酒量を抑えるために『禁酒の会』を作り、父はその会長になった。それを聞いた隣村育ちの母は、禁酒の会の会長をやっているから安心だろうと思って結婚したそうなんです。でも、『禁酒』の意味合いが違っていたわけです」

■「母親のDNA」

 恵男さんは15年以上前にこの世を去っているが、大村さんの中学、高校、大学を通じての同級生、功刀能文(くぬぎよしふみ)さんが明かすには、

「生前、恵男さんが車椅子に乗って、東京で開かれた『サトっちゃん(大村さんのこと)』の功績を祝う会に駆けつけた時のことです。やはり大量にお酒を飲んで、トイレが近くなり、帰り道でも我慢できなくなってしまって、仕方なく皇居の近くの芝生で“失敬”した。付き添っていた淳子さんが、『天皇陛下、申し訳ない』と謝る一幕があったと、淳子さんから聞きました」

 こうした父親の姿を「反面教師」にしたのであろうか、一風変わった大村さんの飲み方は後述するが、一方で昼間の恵男さんは大変な働き者であり、村のまとめ役も務めていた。大村さんの幼馴染みで同級生の樋口博さんによると、

「恵男さんは、韮崎では当時まだ珍しかったホップを栽培していました。大村の好奇心の旺盛さは、父親譲りでしょう」

 他方、大村さんの5つ下の弟、泰三さんは、母親の文子さんが子どもたちに与えた影響をこう説明する。

「もともと国民学校の先生をやっていた母は、農作業を一から学ばなければいけなかったので、近所の人に養蚕について聞いて回り、メモを取りまくった。すると3年で、品評会で優勝する繭を育てるまでになりました。兄貴もメモ魔ですが、研究熱心さは母親のDNAなんです」

 こうした両親のもとで成長した大村さんは、幼い時から我慢強い努力家として有名だった。小学生の頃、学校に行っている時間を除き、早朝から晩まで家の農作業を手伝っていた大村さんの姿を、先の樋口さんはこう記憶している。

「朝起きて、私がまだ寝ぼけ眼(まなこ)で歯を磨いていると、大村がもう桑運びなどの仕事を終えて家に戻っていくのが見えた。彼は桁違いの頑張り屋でした。雪の中に顔を突っ込み、どちらが冷たさに長く耐えられるか勝負したこともよく覚えています。私が顔を上げて、『もう止めろ、これ以上やると皮膚がいかれちゃうぞ』と言っても、大村は雪への『挑戦』を続けた。昔から、限界までチャレンジする男でした」

 また、先の功刀さんは、高校時代のあるエピソードを打ち明ける。

「私たちはいつも4人組で行動していたんですが、学校の帰りに、ぶどうやトマトを食べることがありました。皆、育ち盛りでしたから、そこら辺の畑から“拝借”していたわけです。まあ、盗み食いですわな。で、それを実行する際、2人ずつに分かれて、どうやったら効率よくぶどうやトマトを集められるか、もし見つかった場合はどのように逃げてどこで合流するか、事前に全部、サトっちゃんが計画を立てていました」

 当時から「研究肌」であった様子が窺(うかが)えるが、別の同級生はこんな「逸話」を耳打ちする。

「昔は夏になると野外映画というのをやっていたので観に行ったものです。高校生で思春期の私たちには映画鑑賞以外にも、立ち見している女性の手をさりげなく握る、別の目的があった。智くんは上手だったなあ」

 背が高く、スラッとしていた大村さんは女性受けが良かったのだという。

「彼はモテモテでしたね。銀色の自転車に乗って高校に通っていた智くんは、後ろに女の子をよく乗せていました。それも、違う女の子をね」(同)

 実際、姉の淳子さんも証言する。

「たしかに、智はモテました。『智さん、遊びましょう』と、女の子が4、5人連れ立って、うちに来ることも珍しくありませんでしたから」

 こうして青春を謳歌していた大村さんだが、長男だったことから農家を継ぐつもりで、直前まで大学に進学するつもりはなかった。しかし、父親から「勉強したいなら大学に行ってもいいぞ」と言われ、短期間の受験勉強で山梨大学に合格。弟の朔平さん曰く、

「私たちの父が16歳の時に、父の父、つまり私たちの祖父は亡くなっています。そのため、充分に勉強できなかった父は、自分の子どもにはそういった思いをさせたくなかったのでしょう」

 同大の学芸学部自然科学科を卒業した大村さんは、東京の夜間高校の理科教諭となり、後に研究者の道を歩み始める。27歳の時にお見合いで、奇しくも母親と同じ名前の文子(ふみこ)さんと結婚。これが、今に至る大研究者の礎(いしずえ)を築くことになる。

 高校時代の同級生で、大村さんと同じスキー部に所属し、今でも親交のある守家(もりや)勤さんが説明する。

「彼は奥さんに頭が上がらなかった。というのも、彼女の実家は新潟県でデパートを経営していた資産家で、結婚してまだ間もない頃、奥さんの実家が、みすぼらしいところに住んではダメだと、家を買う資金としてポンと1500万円、援助したそうですから。その後も、大村さんがまだ貧しかった時代、彼女の実家が研究費の一部の面倒を見ていたとも聞いています」

 大村さんの評伝『大村智』の著者である科学ジャーナリストの馬場錬成(れんせい)氏によれば、

「文子さん自身も、得意のそろばんを近所の子どもに教えたりして家計を支えた。また、夜中まで実験をしている大村さんに夕食を運び、時には実験データの計算もして、夫を献身的にサポートしました」

 このように、糟糠の妻とともに研究者人生をスタートさせた大村さんは、71年、米国の大学に客員教授として赴任。帰国後の74年、北里研究所抗生物質室長時代に、米国の製薬会社「メルク社」とのイベルメクチンの共同開発につながる細菌を、静岡県伊東市のゴルフ場近くの土壌から発見する。

 この薬はまず動物に、次いで人間にも効果があることが分かり、アフリカを中心にこれまで累計10億人が服用。イベルメクチンが広まった背景には、メルク社が大村さんの同意を得て、80年代後半からWHO(世界保健機関)を通じ無償提供されたことが大きく関係している。彼はまさに、「アフリカ大陸を救った男」なのである。なお、このイベルメクチンを含む薬品の開発によって、大村さんはこれまで250億円もの特許料等を手にしている。

 そして大村さんを、類を見ない科学者たらしめているのはその「豪快さ」で、250億円のうち220億円を北里研究所に寄付。自身の「取り分」は30億円にとどめたのだ。

 しかも、30億円から税金を引いて手元に残った15億円の中から2億円を拠出し、小中高生が高名な研究者から講義を受けられる「山梨科学アカデミー」を設立。他にも、地元の人に還元するため、韮崎市に美術館、温泉、そば屋を建てるなど、社会貢献に徹してきたのである。

■ひとり娘の…

 そんな韮崎市の大恩人である大村さんを、地元の人はどう見ているのか。彼は同市内と東京都世田谷区に居を構えているが、前者の近隣住民、大村みどりさん(61)はこう語る。

「(大村)先生は、こちらに月1度くらい、いらっしゃいます。焼酎の『佐藤』がお好きで、それをメスシリンダー(ガラス製の液体計器)できっちりと分量を測って飲む。自分の飲むべき量を決めていて、それ以上は飲まない。ですから、酔っ払ったりもしません」

 また散歩の際も、

「なぜだかヘッドのないゴルフクラブをいつも持ち歩いています。足が悪いわけではないので、杖は必要ない。どうしてかと聞いたら、『クラブの長さを把握しているからね』と仰っていました。歩いている時に気になったものについて、クラブを使ってだいたいの大きさや高さの見当をつけているようなんです。散歩も、ただブラブラするわけじゃないみたいですね」(同)

 日常から、大村さんは「計測」と「観察」に徹した「超科学者生活」とでも言うべき時間を過ごしているというわけだ。

 一方、東京の自宅の近所では、乳がんなどを患って2000年に亡くなった文子夫人の、生前のこんな姿が目撃されている。

「いやらしい感じではなく、でもちょっと誇らしげに、犬を散歩している知人に会うと、『フィラリア症(犬糸状虫症)の薬も、うちの人が作ったんですよ』、『いつかノーベル賞を貰えると思うんです』と仰っていました。自慢の御主人であることが伝わってきて微笑ましかったですね」(近隣住民)

 大村さんと共同研究を行ってきた東大医学部の北潔教授(寄生虫学)は、大村夫妻の結びつきの深さに関して、ある光景が印象に残っている。

「大村先生は奥さまを非常に大切にされていました。他界されたのがよほどショックだったのでしょう。彼女が亡くなられた後、先生は剃髪し、頭を丸められたんです。奥さまの存在がどれほど大きかったのか、改めて気づかされました」

 文子夫人の死後、大村さんはひとり娘の育代さん(42)と暮らしているが、そんな大村家の「心配事」を、弟の泰三さんはこう話す。

「兄貴は胆嚢(たんのう)と、がんを患って前立腺を摘出していますが、自分の職場である北里大で最高峰の治療を受けたんですから、心配していません。一方、気がかりなのは育代で、まだ独身。親戚が話を持っていっても、『結婚は面倒くさい』とか言ってダメなんだ」

 大村さんご本人に今後について尋ねると、

「お金は残したって仕方がないからね。(東京の自宅の)近所や地元に貢献していきたいと考えています。今もちょうど、近所の天神様に行ったら、敷地内の整備の資金について話し合っていたので、『お金は私が何とかするから、見積もりを立ててみてください』と言い、私の住所と電話番号を伝えてきたところです」

 相変わらずの豪快さを見せつつ、育代さんの件は、

「娘に結婚する気があるのかどうか分からんけど、あまりいろんなことは言わないようにしている。女の気持ちは分からんからね」

 さしもの偉大な科学者も、女心までは「研究」しきれていないようである。

「特集 『ノーベル賞』受賞の光と影と舞台裏」より

週刊新潮 2015年10月22日号掲載

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