偉人たちのゴシップ集/『歴史と私 史料と歩んだ歴史家の回想』

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 無味乾燥で、解読に手間のかかる歴史史料の山の向こうに、やけに生臭い、人間味溢れるドラマが隠れている。史料を探し、収集し、整理し、活字化し(採算にあわず活字化できないことも多い)、保存し、公開する。『歴史と私』は昭和史研究のインフラ整備をライフワークにした東大名誉教授伊藤隆の語りによる回想録である。

 報われること少ない、地味な作業の連続のはずなのに、妙に愉しげで、疲れを知らない収集のさまは、驚嘆に値する。政治家、軍人、官僚、労働運動家など対象となる人種はさまざま、途中からはオーラルヒストリーという聞書きにも力を入れる。

 かつて大久保利謙『日本近代史学事始め』(岩波新書)という好著があった。元勲大久保利通の孫である歴史学者が明治史の史料を収集し、国会図書館の憲政資料室を充実させていった記録である。その大久保の後継者でもある伊藤による昭和史学「事始め」が本書なのだ。

「明治期はみんな、自分たちが新しい国家を作っているという自負があったから、積極的に記録を残し」たが、敗戦を機に「都合の悪いものは捨ててよろしい」という前例ができた。「文書を捨てることの罪悪感が希薄に」なった。史料収集には逆風の時代になったのだ。

 そうした劣悪な環境下では、史料の発掘からして一苦労である。アンテナはあらゆる方向に張る。歩いている時でも油断しない。由緒ありそうな家の表札の文字に目をこらす。世田谷の住宅街で「真崎」を目にとめる。二二六事件の黒幕と目された真崎甚三郎大将の家ではないか。ここから遺族への接触が始まり、『真崎甚三郎日記』刊行へとつながっていく。NHKの番組づくりの過程からは『東條内閣総理大臣機密記録』が誕生する。

 といって大上段に構えての本ではない。本書のいちばんの読みどころは、たくさんの登場人物の楽屋話エピソード集、ゴシップ集であり、著者による人物寸評集成の面白さである。

 戦中の東京帝大国史学教授で、皇国史観の論客だった平泉澄を訪ねる。火の気のない部屋で正座のまま、話をうけたまわる。開口一番、「これから私が日本を指導した時代についてお話しします」とやられ、鼻白む。夫人から血圧が高いのにプロレス好きで困るという話を聞き、ご本人に確認すると、大真面目に答える。「隠忍に隠忍を重ねて、最後にパッと相手を倒す。これは日本精神に通じる」

 右翼の政界浪人で、陸軍統制派に近かった矢次一夫に疑問を突きつけると、「お前みたいな机上の学問をやっている奴とは違うんだ。俺は現場でやってきたんだ」と激昂する。「右翼の連中は、自分の子分を怒鳴って相手を威嚇する」ものなのだ。その矢次は後に岸信介のインタビューをとりもってくれた。
『木戸幸一日記』に頻繁に登場する松井成勲という政界浪人がいる。松本清張が『昭和史発掘』で石田検事殺しの犯人とした人物だ。松井は「俺は人殺しなんかしていない」と憤然となった。同席した人物は「あんな怖い人のところへ行くのはもう御免だ」と縮み上がった。

 ハト派でも強面(こわもて)の人がいる。後藤田正晴はオーラルヒストリーが出版された時に、「君たちには悪かったが、密(ひそ)かに身元調査をさせてもらいました」と警察官僚出身の地を見せた。伊藤隆は「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーだったのだが、「教科書を作った時も、後藤田さんが潰しにかかったという噂があって、私は腹を立てたこともありました」とサラリと一矢を報いている。伊藤の方もなかなかの策士なのだ。後藤田の『情と理』は売れに売れた。その効果は絶大で、「後藤田さんがあんなにしゃべったのですから」を口説き文句に、元官僚たちの固い口元をほぐしていくことになる。

 伊藤は疑問の人物についても容赦はしない。その代表例としては同盟通信の大ジャーナリスト松本重治がいる。会議の場での「私は終始平和主義者であった」という発言に伊藤は強い違和感を覚える。戦前戦中に松本自らが書いた文章で、松本と軍部との深い関係を知っていたからだ。松本の回想録には「自己を語らない同時代史」だと落第点をつける。

 中曽根康弘の場合は微妙である。インタビューには協力的で、一次史料である日記や手紙を持参してきてくれた。そのくせ話す内容と史料がずれていたりする。結局、インタビューの後に日記を挿入し、「どちらを信じるかは読者にまかせる」スタイルになった。「人には語りたいことを語らせなければ駄目です。自慢話でいいのです。どのみち人は、他人の話を聞いたら自慢話だと思うわけで、私が何をしゃべったって自慢話だと思うでしょう。それと同じです」

 こうやってさまざまな人物を紹介していってもキリがない。なかには中公版『日本の歴史』を「ご本人が一行も書かないまま、その名前で刊行」し、決定的に不信感を持った東大教授のことや、女性問題の記述がたくさんある父親の日記を、それ故に出すという息子の作家のことなど、どれも実名で登場する。多くの人物に出会った末、伊藤が「軍隊経験あるいは旧制高校の経験があって、人間の厚みがある」と結論するのは、やっぱりなと思いつつも考えさせられる。「若い頃の経験が、人間形成やのちの仕事に大きな影響を及ぼしている」。それもその通りだろう。この本で唯一残念なのは、伊藤の東大駒場の民青キャップ時代がほとんど語られていないことだ。伊藤の人を動かす力、組織力や政治力は、その時に培われたように思えてならないからだ。

[評者]平山周吉(雑文家)

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