「生涯賃金は実家の蔵書の数で決まる」というデータは確かか?

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 安倍政権が進める教育改革の旗振り役である「教育再生実行会議」に、興味深い研究データが提出された。それによると「多くの蔵書に囲まれて育った子どもほど、生涯賃金が増える」という。果たして、その真偽とは――。

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「蔵書が多い家庭で育った人ほど、賃金が高くなる」

 一見、チグハグにも見える研究データが提出されたのは、5月19日に開催された「教育再生実行会議」だった。安倍晋三総理が2013年1月に立ち上げた、総理直属の私的諮問機関である。自治体の長や大学教授といった有識者が集う公の場に興味深い資料が提出されたわけだ。関係者が当日の様子を振り返る。

「出席者には『教育の社会的効果に関する研究』と題するA4用紙8枚が綴じられた小冊子が配布されました。国による大学の学部生や院生への投資は将来的に約2・4倍になって返って来るとする、高等教育が国にもたらすメリットについて金銭面から分析したデータをまとめたものです。中でも最も目を引いたのが『非認知能力が賃金等に与える影響』という項目で、7歳や15歳の幼少期を蔵書の多い家庭環境で育てられた人ほど、将来手にする賃金が高くなるという記述があった。出席者からは、軽いどよめきが起こりました」

 ここで言う「非認知能力」とは積極性や勤勉性、協調性といった、いわゆる生活態度のこと。IQのような知的機能を意味する「認知能力」だけでなく、「非認知能力」を伸ばすことも、将来的に高い学歴や生涯賃金を増やす効果をもたらすというのである。この研究データを作成した、慶応大学商学部の鶴光太郎教授が解説する。

「私は今年1月に、全国の1万2000人以上を対象にアンケート調査を行いました。それによると、書籍が多い家庭に育った人はそうでない人に比べて大学進学率が高く、現在の賃金額も多いことが分かりました。家庭に多くの蔵書があれば、子どもが本に触れる機会は増えるでしょう。それにより、知的好奇心などの積極性や、最後まで読み終えるという根気や粘り強さといった非認知能力が身についたのだと考えられます」

 つまり、幼い頃に読書習慣を身につけた人は旺盛な学習意欲やそれを維持する勤勉性を身につけている。ひいてはそれが高い学歴や生涯賃金が多い職業への就職につながっていることが確認されたというのだ。

 5月22日に自身の読書遍歴を綴った『渡部昇一 青春の読書』(WAC)を上梓したばかりの評論家の渡部昇一氏(84)は、

「最近話題のフランスの経済学者・ピケティも“本を読んで育った人は教育水準が高くなって賃金が多くなる”と言っています。家庭に多くの蔵書があるのは、親が教養人であるということ。例えば『世界文学全集』があれば、その全てを読んでいなくても一定の知的興味を持っているわけです。そういう親は、子どもに自分たちのような教養人であって欲しいと願い、一方の子どもは、幼い頃はとくにその期待に応えようとするでしょう。そうして育った子どもが優秀な大学を出て、高い賃金を得るのは当然だと思います」

 が、読書といえばここ数年、最も本に親しむべき大学生の活字離れが深刻である。昨年2月に公表された「全国大学生活協同組合連合会」による調査では、「全学生の4割は1日の読書時間がゼ口」という、情けない実態が明るみに出て話題となった。

 今も電車や街中には、文庫本でなくスマホを手にする学生が溢れている。

 では、家庭にはどんな本を置いておけば、子どもに読書の習慣が身につき、より多くの生涯賃金を得られるように育つのか。

■収入より価値あるもの

 2万冊もの蔵書の中で娘を育てたというのは、本誌連載コラム『逆張りの思考』の執筆者で、元日本マイクロソフト社長の成毛眞氏(59)である。

「割合で言うと、塩野七生さんの『ローマ人の物語』のような歴史文学と、物理学や天文学など最先端科学に関する読み物、さらにモンテーニュの『エセー』のような随想類がそれぞれ3分の1ずつ。ジャンルは違えど、共通しているのは“将来は明るい”と示唆するような、未来志向の本が多いことかな」

 現在、娘は総合商社に勤務しており、20代後半という年齢ながら、1000万円近い収入を得ているという。鶴教授の調査が裏付けられた格好である。

「同世代と較べれば、高い年収を得ている方でしょう。でも、幼い頃にあの蔵書を読んでいたかどうかは分かりません。少なくとも手に取って表紙や背表紙を見たり、或いはそれらを読んでいる僕の姿を目にしたことで、知的好奇心や探求心のようなものが芽生えたことは間違いないようですけど」

 それだけに成毛氏は、あくまで蔵書は親が子どもに何らかのメッセージを伝えられる物であるべきと主張する。

 成毛氏の娘とは対照的に、全く蔵書がない家に育ったのは評論家の徳岡孝夫氏(85)である。

「家に蔵書があろうがなかろうが、若い頃の書物に対する欲求は大切です。私の子どもの頃は、小遣いで江戸川乱歩や平田晋策の本などを買って読んでいました。小学生だって『平家物語』を読めば、“ああ、人生はこんなに悲しい終わり方もする儚いものなんだ”と実感できる。それが読書の喜びなんです。私もずいぶん多くの本を読んできたつもりですが、それが収入につながったかどうかは分かりません。生きる世界は広がったかもしれませんが」

 ジャーナリストの故・大宅壮一氏の娘で、評論家の大宅映子氏(74)はこんな意見だ。大宅氏は大量の書籍だけでなく、膨大な雑誌類にも囲まれて育った。

「家には父親の仕事柄、毎日のように書籍や雑誌が送られて来て、“蔵書が多い”なんてレベルじゃありませんでした。古典もあれば新刊もあり、中には母親が娘に読ませたくないと思うようなゴシップ雑誌なんかも転がっていました。でも、“読むな”なんて言われると却って余計に読みたくなっちゃって。お蔭で活字が好きになりましたけど」

 読書が彼女にもたらしたのは、収入よりも遥かに価値のあるものだったという。

「それは教養です。社会人は仕事や同僚、友人関係、家族関係などで、日々、様々な判断を迫られます。それを自分の頭で考えて決断することが大切ですが、最近はそれができない若者が多いと感じています。例えば、ニュースキャスターが時の政権を批判していたら、全く同じ考えを持ってしまう。それは間違いなく読書が足りないからだと思います」

 一方、大宅氏は育った家庭の蔵書の量で生涯賃金に差が生まれるというデータには懐疑的である。

「幾ら蔵書が多い家に生まれたって、ロクに本を読まないで大人になった人は大勢います。反対に蔵書がなくても、図書館に通い詰めた子ども時代を送る人だっているでしょう」

 その上で、

「幸い私は多くの蔵書に囲まれていたからこそ、昔の賢人たちが書いた書物や歴史書などに親しむことができました。過去の言葉が今も生き続けているのは、それが普遍的な正しさを持つからに他なりません。読書を通じて教養を身につけることは正しい生き方を知ることでもある。結果的にそういう努力をした人は、そうでない人より収入が多いのかもしれませんが」

 多くの蔵書=高い賃金と断言するのは行き過ぎかもしれないが、賃金の多寡を左右するとは言えそうなのだ。

週刊新潮 2015年6月11日号掲載

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