メッキが剥げた「白鵬」は根暗な「朝青龍」!

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 34回目の優勝を果たし、前人未到の荒野を1人行く横綱・白鵬(30)。だが、その荒野に響く相撲ファンの声援は徐々に、しかし確実に小さくなっている。ついには、彼の姿が“ある人物”と重なるとの声が上がり始めた。そう、「悪童」と呼ばれた元横綱・朝青龍だ。

 ***

 重苦しい25秒間だった。

 3月22日に千秋楽を迎えた大相撲春場所。優勝を決めた後、表彰式の場内インタビューに応じた白鵬の顔は紅潮し、額には大粒の汗が浮いていた。結びの一番、横綱・日馬富士との激しい闘いの余韻冷めやらぬ中、会場中の視線を一身に集める白鵬に異変が起こったのは、インタビューの冒頭。今場所をどんな気持ちで迎えたのかを問われた白鵬は、

「いろいろ騒がせましたけど、まぁ……」

 と、こぼした後、沈黙したのだ。発すべき言葉は喉まで上がってきてはいるが、心中、複雑な思いが渦巻いていて声にならない。そんな雰囲気、表情である。そして約25秒後、

「まぁ、頑張ります」

 何かをごまかすかのように、そう述べたのだ。

 相撲記者が言う。

「白鵬は“あの問題”について謝罪する最高のチャンスを自ら潰してしまいました。“騒がせましたけど”と言った後に、“申し訳ありませんでした”と謝罪していれば、長引く騒動に自ら終止符を打つことができた。しかし、プライドが許さなかったのか、結局、白鵬は沈黙した末、うやむやにしてしまったのです」

“あの問題”とは、今年の初場所後に白鵬が審判部を批判したことを指す。白鵬が噛み付いたのは、13日目の大関・稀勢の里戦。この一番に物言いがつき、取り直しになったことがよほど気に食わなかったようで、千秋楽から一夜明けた1月26日の会見でこう不満をぶちまけたのだ。

「子供でもわかる相撲だもんね。なぜ取り直しにしたんだろう」

「肌の色は関係ないんだよね。同じ人間なんです」

 審判への批判がご法度であることは言うまでもなく、相撲協会の北の湖理事長らは激怒。師匠の宮城野親方が理事長に謝罪する事態となった。当の白鵬はテレビのバラエティ番組で形ばかりの謝罪の弁を口にしたが、反省していないのは明らかだった。何しろ騒動後、白鵬は、記者を無視するといった子供じみた態度をとるようになり、周囲を大いに呆れさせたのだ。

「今場所も白鵬との“冷戦”は続いていました」

 と、先の相撲記者は話す。

「白鵬は2日目から支度部屋で報道陣に背を向けて座り、ベテラン記者が声をかけても無視。そのうち、誰も質問をしない異様な状況になってしまった。優勝翌日の“一夜明け会見”には応じましたが、騒動については“終わったこと”と言うだけで、謝罪の言葉はありませんでした」

 大相撲ファンで漫画家のやくみつる氏が慨嘆する。

「今場所の優勝は、自分のご贔屓筋や奇特なファンからしか祝福されない、不幸な優勝でした。白鵬は“勝ち続けさえすれば誰も文句は言えまい”という考えになってしまっており、その姿は、何事も自分勝手だった朝青龍とダブります。このままいけば、白鵬も朝青龍と同じ道をたどることになるのではないでしょうか」

 朝青龍と白鵬。これまで、2人に対する世間の“評価”は対照的だった。かたや、度重なる問題行動で常にその品格を問われ続けた「悪童」。こなた、日本人よりも日本人らしいとの声が上がるほど品行方正なことで知られた「優等生」。一体、誰が想像しただろうか。その白鵬が「朝青龍みたい」と言われる日が来ようとは――。

 1980年9月生まれの朝青龍が初土俵を踏んだのは、99年の1月場所。横綱への昇進が決まったのは、2003年の1月場所後である。ケガを理由に夏巡業への不参加を届け出ていたにもかかわらず、モンゴルで草サッカーに興じていたことが発覚、猛バッシングを浴びたのは07年。その3年後の10年、泥酔した末に暴行事件を起こし、石もて追われるように角界を去った。

 一方、1985年3月生まれの白鵬は2001年に初土俵、横綱に昇進したのは07年の5月場所後だ。

■“あの人”から“ヤツ”へ

「朝青龍が現役だった頃、白鵬は“朝青龍がいなくなれば自分の時代が来る”と常に考えていた。そのため、朝青龍が現役のうちは、なるべく目立たないようにしていたのです。そのおかげで、品行方正で静かなイメージが定着したのでしょう」

 とは、相撲協会関係者。

「朝青龍の引退後、白鵬は徐々に本来の自分を表に出すようになりました。白鵬が朝青龍の優勝回数25回に並び、超えたのは13年。すると白鵬は、それまで“あの人”と呼んでいた朝青龍のことを“ヤツ”と言うようになりました」

 さる相撲ジャーナリストに言わせると、

「朝青龍は、素行が悪いだけで表裏のない“陽性のワル”だった。一方の白鵬は、陰湿で狡猾な“陰性のワル”なのでたちが悪い」

 同じ“ワル”でも真逆の性質を持つ2人は、相撲協会との“距離感”という点においても、全く異なる考えを持っていた。

「朝青龍には引退後、相撲協会に残って親方になる気は全くありませんでしたが、白鵬は、早くから協会に残りたいという意向を示していた。実際、12年以降、内弟子をとるようになり、“将来は銀座に部屋を持ちたい”と周囲には話していました」(先の協会関係者)

 年寄として協会に残るためには、日本国籍を有していなければならない。だが、朝青龍を“ヤツ”と呼ぶほどに増長した白鵬は勝手に思い込んだようだ。自分は“特例”になる、と。

「その白鵬の勝手な思い込みに気付いたのか、昨年7月、北の湖理事長は“年寄の資格があるのは、日本国籍を有している者”と言明。それからです、白鵬が荒れ始めたのは」(同)

 そして、優勝32回という大鵬の大記録を塗り替えた今年の初場所後、「審判部批判」という形で不平不満を爆発させたのである。

「以前、白鵬が双葉山の“未だ木鶏たりえず”という言葉を引用したことがあり、感心しました。これは朝青龍とは違う、と思ったものですが、結局、一連の騒動で白鵬も“相撲の魂”など理解していないことが分かってしまった」

 そう語るのは、漫画家の黒鉄ヒロシ氏である。

「相撲はスポーツではなく、日本人特有の文化、祭式に近いものですから、外国人が完璧に理解するのは難しい。これは差別でもなんでもなく、相撲とはそういうものなのです。だから、白鵬の態度が悪くなっても驚くことはない。諦めればいいのです。もう手遅れなのですから」

 優勝34回の金字塔は霞むばかりである。

週刊新潮 2015年4月2日号掲載

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