名優「坂東三津五郎」が脇役だった「梨園略奪婚」の悪玉女優

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 またしても、梨園に大立者の訃報が――。さる21日、すい臓がんで急逝した坂東三津五郎(59)。映画やテレビドラマ出演もこなし、約3万人の弟子を抱える日本舞踊の家元でもあった本人、かつては「2人の妻」を巻き込み、踊り踊らされの日々を繰り広げていたのだ。

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 三津五郎の容態が急変したのは、亡くなる4日前のことだった。

「2013年9月にすい臓がんの摘出手術を受けたのち、昨年4月には舞台復帰を果たします。ところが、9月の定期検診で肺への転移が発覚。以来、治療に専念してきたのです」

 とは、演劇担当記者。

「1月下旬には、インフルエンザにかかって肺炎を併発し、緊急入院。そんな中でも2月上旬、自らが家元を務める日本舞踊坂東流の名取試験が行われ、一時外出の許可を貰って立ち会っていたのです」

 その間、自宅でテレビ番組の収録もこなしていたのだが、17日に病状が悪化。

「以後は小康状態が続き、20日までは意識もあったものの、日付が変わった未明、家族に看取られ、息を引き取りました」(同)

 苦しみから解き放たれたかのように、死に顔は穏やかそのものだったという。

 梨園では大物の訃報が続く。一昨年4月に生まれ変わった歌舞伎座のこけら落としを待たずして、同年2月に市川團十郎(享年66)、その2カ月前には中村勘三郎(同57)を失ったのは記憶に新しい。

 そして今回も然り。演劇評論家の渡辺保氏が言う。

「歌舞伎は年齢を重ねることで味が出るため異論があるかも知れませんが、私は三津五郎は名人だと思います。名人の条件はただ一つ、舞台上で全てから自由であるかどうか。立役(たちやく)(成年男子の役)で和事から荒事まで広く演じられ、そして踊れる。『奴道成寺』という舞踊では、おかめとひょっとこ、お大尽という3つの面を交互につけて踊りますが、彼は三者を演じ分ける時に“体の表情”が変わる。これは稽古と研究の賜物で、まさに奇跡でした」

 23日には、長男・巳之助(25)が歌舞伎座で会見、

〈父には、もっと沢山のことを教えて貰いたかった〉

 と、気丈に語っていた。振り返れば彼が幼少のみぎり、その父は“荒事”の只中にあった。舞台でなく、紛れもない実生活の話である。

■“恋多き女”は…

 九代目坂東三津五郎の長男として生まれた故人は、6歳で初舞台を踏み、五代目坂東八十助を襲名。1983年には宝塚の男役準トップスター・寿ひずる(60)と結婚し、1男2女をもうけた。そして、醜聞の渦に巻き込まれていく――。96年暮れ、当時フジテレビの看板アナウンサーだった近藤サト(46)との不倫が発覚し、続いて“略奪婚”へと発展するのだ。ベテラン芸能デスクが振り返る。

「以前から八十助(当時・以下同)には、複数の女性の影が見てとれました。それもあって寿とは数カ月前から別居中だったところ、近藤との密会を『FRIDAY』にキャッチされてしまうのです」

 かくして、寿ひずるとは97年3月に離婚が成立。

「別れるにあたり、いずれも未成年だった3人の子は寿が引き取り、八十助が親権を持ちながら養育費を払うという取り決めがなされました」(同)

 98年6月、八十助は近藤と婚約し、9月には近藤がフジテレビを“寿退社”。そして11月、晴れて入籍を発表するのだが、わずか1年7カ月後の2000年6月、あっけなく離婚してしまう。当時、会見で近藤は、

〈私は結婚で子どもができることを望んでいました。しかし、それを誰かの意思によって阻まれるのは、理解できないことでした〉

 と、意味深な言葉を残していた。さる歌舞伎関係者によれば、

「九代目の遺志もあり、ゆくゆく坂東家の跡取りは長男の巳之助に、というのが“既定路線”となっていた。そこに近藤が男児を産めば後継問題が複雑になるからと、周囲は懸念していました。また再婚後、八十助の両親が立て続けに亡くなり、さらに01年1月には本人が十代目三津五郎の襲名披露を控えていた。そんなデリケートな時期に子どもを作るのはいかがなものかと、贔屓筋や親族からも声が上がっていたのです」

 そもそも梨園のしきたりなど無縁のまま飛び込んできた彼女、独特の雰囲気に耐えかねて出て行ったと目されていたのだが、その一方、離婚の原因として、有名病院に勤務する精神科医との“不倫説”も、にわかに駆け巡った。

「近藤はこれを全面否定。むしろ八十助の女性問題に話題が飛び火しないよう、周囲がカムフラージュを仕掛けたのだという見方も出て、立ち消えになったのです」(前出デスク)

 それでも、恋多き女であることは身を以て示してくれた。離婚からわずか3カ月、2000年10月半ばのことだった。深夜、住宅街に停められた乗用車の中で、近藤が男性と熱い抱擁を交わしている写真が『FOCUS』に掲載されたのだ。お相手は彼女より7歳上、制作会社を経営する元テレビ局プロデューサーであった。

 近藤はこの時の取材に、

〈キスしたというのは、(男性が)話が面白い、信頼できる、頭の良いということの延長というか……〉

 としながら、

〈いまの私は状況が状況なだけに、彼の私に対する気持ちがわかっていても、それに応えられないジレンマというか葛藤があって……〉

 などと、あたり憚らずキスを繰り返したことに対し、珍妙な理屈を並べ立てていたのだった。

「アナウンサー時代は知的なイメージで、離婚会見でも、まるで自身が被害者であるかのように理路整然と話していた。そのすぐ後にこうした醜聞が流れたわけです。勝手の違う世界に土足で入り込んで踏み荒らした挙げ句、形勢不利と見るや、さっさと退散。あとは気の向くまま……と世間には映り、歌舞伎ファンの女性のみならず、広く巷の反発を買った近藤は、すっかり“ヒール”扱いされてしまいました」(前出デスク)

 近藤は結局この男性とも別れ、03年暮れにイベント会社社長の今岡寛和氏(53)と“できちゃった”再婚。翌年には男児を出産し、現在に至る。

■久々に脚光を浴び

 ところで三津五郎の死去にあたり、彼女はこんなコメントを発表していた。

〈突然のことで大変驚いています。歌舞伎俳優として日本舞踊家として、とても尊敬申し上げていました〉

 所属事務所によれば、

「自主的に発表したわけではありません。各メディアから多数の問い合わせを頂き、出さないわけにはいかなくなったのです。自宅に来られても家庭があるので、会見などはお断りし、コメント以外は遠慮させて頂きたいと考えました」

 とのことだが、芸能評論家の肥留間正明氏は、こう指摘するのだ。

「いち早くお悔やみのコメントを出した彼女には、違和感を覚えざるを得ません。略奪婚の末に1年と半年余りで離婚したという経緯があるだけに、本来ならばもう少し遠慮があってしかるべきでしょう」

 あるいは“コメントは差し控えたい”といった談話も、考えられたことだろう。

「前妻の自分に俄かに注目が集まる中、ここぞとばかり、かつての女子アナ時代の本性が露呈したのだと思います。久々に脚光を浴び、舞い上がってしまったのではないでしょうか」(同)

 三津五郎の長年の友人が明かす。

「彼は、近藤さんとの婚約の際に口にしていた通り、“頭のてっぺんからつま先まで芝居のことばかり考えている”人。だからこそ梨園の妻は大変なのですが、寿さんは宝塚という派手な世界の出身で、またトップスターの一歩手前で嫁いだため、心残りがあるまま表舞台から去らざるを得なかった。そのことで、お子さんたちを産んだ後も完全には夫のサポート役に徹しきれなかったのです」

 そこへ、やはり派手な世界から後妻を迎え、

「また同じ失敗をしないか、と心配していました。それは、近藤さんがあまりに結婚を急いでいたからです。3人の子はまだ多感な時期で、もう少し待ってあげてもよかったのに、さっさと彼を自分の両親に会わせるなど、何とか既成事実を作りたがっているフシがうかがえました」(同)

 果たして、その不安は的中。以来、三津五郎は独身を貫いてきた。

「近藤さんとの生活が1年半しか続かなかったことを、本人は“みっともない”と恥じていました。家にはお手伝いさんがいて、2人の娘さんもよく立ち寄っていたので生活の不自由はなかったでしょうが、“自宅で飲んでボーッとしていることが多いよ”なんてこぼしていましたね」(別の友人)

 さしもの名人も、ヒール相手の愛憎劇ではイニシアチブをとれなかったのだ。

「特集 名優『坂東三津五郎』が脇役だった『梨園略奪婚』」の悪玉女優」より

週刊新潮 2015年3月5日号掲載

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