山口組100年の節目に最初で最後の「顧問弁護士」がバッジを外す

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 今年は指定暴力団「山口組」が創設されてから100年の節目の年。1月25日には、全国の親分衆参集のもと、神戸市の山口組総本部で「創設100周年記念行事」が行われたが、同じ頃、弁護士として山口組をバックアップしてきたその人物も「節目」を迎えていた。山口組の“最初で最後の顧問弁護士”、山之内幸夫氏(68)だ。

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 その事件の判決が大阪地裁で言い渡されたのは1月28日のことである。山之内氏が問われたのは、倉庫を壊すよう依頼人の男性を唆(そそのか)したという建造物損壊教唆の罪。下されたのは、懲役10月、執行猶予2年の有罪判決だった。この判決は、弁護士である山之内氏にとって重大な意味を持つ。禁固以上の有罪判決が確定すると、執行猶予の有無に拘らず、弁護士登録が取り消されるからだ。山之内氏はすぐさま控訴したが、

「今後、僕は弁護士バッジを外さざるを得なくなると思います。控訴審、上告審で無罪になる可能性はかなり低いと見ています」

 と、山之内氏ご本人。

「昨年、この事件で起訴された翌日に心筋梗塞で倒れました。今でも毎日薬を飲み、病院に通っています。そういうこともあって、もう潮時かなという気がするのです。40代、50代なら絶対こんな気持ちにはなりませんでしたが……」

 長年、山口組の“守護神”を務めてきた人物にしてはいやに弱気なのだが、無論、今回の判決に納得しているわけではなく、

「今回の事件は起訴するような事案ではないですよ。警察は僕のクビがとれる絶好のチャンスと見たのでしょう。この判決は“山口組の顧問弁護士なんかやってはいけませんよ”というものだと解釈しています」

■「墓場まで…」

 香川県出身の山之内氏は大阪の工業高校を経て早稲田大学法学部に進み、司法試験に合格。1975年に弁護士登録し、84年に山口組の顧問弁護士となった。顧問就任を打診したのは、竹中正久四代目体制で若頭補佐に就いていた宅見組の宅見勝組長だった。

「もちろん、葛藤はありました。家族がどう思うかとか、世間から“色つき”と見られるやろうな、とか。しかし、ヤクザ社会への興味が勝り、就任要請を受けることにしたのです」

「山一抗争」が生み出した数多くのヒットマンの弁護を務め、88年に上梓した『悲しきヒットマン』は後に映画化された。一方、暴力団対策法が施行される前年の91年には恐喝未遂容疑で警察に逮捕され、勾留生活も経験した。ちなみに、この事件では97年に無罪判決が確定している。

 そんな激動の弁護士生活を送りながら、山之内氏は“ヤクザとは何なのか”と考え続けてきた。

「元々、なんでこんな組織が日本にあるのか、と興味があったのですが、約40年もヤクザ組織を見てきて、今考えているのはこういうことです。異論もあるでしょうが、ヤクザ組織は、世の中からはぐれてドロップアウトした連中の受け皿となってきたのではないか、と。そんな組織が必要だとまでは言いません。ただ、そこに厳然として“ある”ということです。確かに今は、僕が見てきた中でも、ヤクザにとって一番厳しい時代です。しかし、ヤクザ組織はなくならないと思います。ただ、今後はどんどん潜在化していくでしょう」

 そう語る山之内氏に、弁護士の職を辞した後、どうするのかと問うと、

「自伝を書いてくれとか色々言われるのですが、今は考えてないですね。僕自身が墓場まで持って行ったほうがいいようなことも、山口組の大きな動きの中ではたくさんありましたし」

 と、“思わせぶり”なことを呟(つぶや)くのであった。

「ワイド特集 さよならの向う側」より

週刊新潮 2015年2月26日号掲載

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