稀代の日記魔の栄光と孤独/『哀しすぎるぞ、ロッパ 古川緑波日記と消えた昭和』

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 小林信彦の『日本の喜劇人』は、エノケンではなくロッパから始まっていた。小学三年生のガキを喜劇狂にしてしまったインテリ芸人・古川ロッパへのオマージュからである。『日本の喜劇人』では、ロッパが膨大な日記を残したことにも触れていた。その後、晶文社から全四巻の分厚い日記が出現した。四千頁近い量に圧倒され、もちろん敬遠した。本書『哀しすぎるぞ、ロッパ』によると、日記原本はそれどころではなく、四百字詰め原稿用紙換算で優に三万枚を超えるという。日記は二十六年分あるから、年平均千二百枚。普通の単行本にしたら百冊分といったところか。

 怖るべき執念の日記魔に対し、無謀にも挑んだのが、著者の山本一生である。こちらは日記読み魔である。前著『日記逍遥 昭和を行く』(平凡社新書)は木戸幸一から笹川良一までの日記と昭和史を交錯させて、日記の読みどころを伝授していた。東大時代の恩師・伊藤隆に協力して『有馬頼寧日記』編纂にも関わったセミプロである。『有馬頼寧日記』は女性関係が正直に書かれ、かつ活字化に際して削除を免れた稀有な日記であった。

 ロッパは「女性関係はお盛んだったようだが」、日記には出てこない。「最も重要なことは記述されない」という、日記読み魔が体得した日記の重要原則に照らせば当然である。そっち方面には深入りせず、「とらえにくい時代を知るための望遠鏡」としてロッパ日記を読み込んでいく。

 ロッパは政治には関心が薄い、と日記読み魔は判定する。時代の動きを丹念に記述する代わりに、人気俳優だったがゆえに、日記は「普通の人々を映す鏡」として機能する。そこに注目するのだ。

 ロッパは普通の人ではない。名門のお坊っちゃまである。祖父は帝国大学総長の加藤弘之男爵、実父は宮内省侍医の加藤照麿男爵、兄弟には探偵小説家でもある浜尾四郎子爵、貴族院議員で「愛国行進曲」の仕掛け人でもある京極高鋭子爵など、皇室の藩屏(はんぺい)が揃っている。昭和二十年四月二十一日の日記には「恐れ多くも、貴いお方が、僕のラヂオは必ず、おきゝになる」とある。雲の上の情報も入ってくる身分なのである。

 若き日に映画雑誌の編集で失敗した時、役者になれとアドバイスをくれたのは、文壇の大御所の菊池寛と、宝塚歌劇の育ての親で東宝社長になる小林一三であった。芸の保証人からして、超VIPの大物である。

 そんなロッパが「普通の人々を映す鏡」となるのは、興行という修羅場で、客の入りに一喜一憂し、観客席の反応に曝される日々を送ったからだ。つまらぬ芝居に他愛なく笑う満員の客に接して、「高踏的なものを狙へないと思ふ。又、狙ひたくもない」と感想を記すのだ。

 印象的なのは支那事変勃発直後の記述だ。小林一三から「軍事物をやれ」と命令が下る。出し物には「出征」とか「軍歌日本」とかが用意される。劇団員に赤紙も来る。昭和十二年九月十七日の日記。「僕らは根本に於てむろん非戦論である。それだのに、此うなって来ると、銃とって立ちたいやうな気分になって来る――こゝが僕らの大衆性なのではあるまいか」。

「非戦論」のロッパは迷う。積極的に行くべきか、消極的に留まるべきか。小林一三に相談にいく。「積極策だ。他が積極的に出られない時に大いにやるべきだ」。軍隊ギャグが満載された菊田一夫作の「ロッパ若し戦はゞ」は、肥ったロッパ二等兵に爆笑の連続となった。劇評も傑作との評価が出揃う。

 戦線が中国大陸の奥深くに引きずり込まれるように、ロッパが戦争物で奮闘する姿が本書の中心に据えられてゆく。兵隊作家・火野葦平原案の「ロッパと兵隊」では、舞台にサンマを焼く匂いと煙がたちこめる。戦地で正月を迎える兵隊たちの望郷の思いがこもるその匂いに、客席は感動の涙となる。

 見物客にはロッパに劣らない日記魔がいたことを、日記読み魔である著者は見逃さない。木戸幸一と大蔵公望。東条英機を首相に奏薦するA級戦犯侯爵と、満鉄理事として東亜政策に関わった男爵が、ともに家族を連れて有楽座で観劇した。「戦地に於る兵の苦心を現はし得て妙なり」と、大蔵はえらく感心している。

 日米開戦では、特殊潜航艇で真珠湾に突入した九軍神を舞台化する。軍神報道解禁の半月後に、「若桜散りぬ」を急遽上演する。軍神の父が上京して見物に来る。「わしの伜はあんな柔弱な男ではない」と怒り、父役のロッパに、「あの老け込んだ父親はなんだ」とお門違いのクレームをつける。海軍省もお気に召さず、ラジオ中継は突如中止である。

 戦局も押し詰まった昭和二十年二月、ロッパは重要な言葉を記す。「近頃のやうに、多事多難なる人生を味はってゐることは、此の日記、なまじの小説よりは、後年読んで面白いこと受け合ひなり」。

 日記人生への倒錯的なまでの自信は、敗戦、占領そして死が迫る日まで、実人生が思う通りにいかなくなり、壮烈な闘病の日々になればなるほど、膨れ上っていく。「日記のための人生といふものがあっても可笑しくはあるまい。人生そのものより日記が好きなら、此の世に不幸は無いことになる」。

 昭和三十五年十二月二十五日が、ロッパ最後の日記となった。その夜、新刊書の『夢声戦争日記』を途中で抛り出し、病苦に耐えるのが精一杯となる。それからの三週間、日記は書かれなかった。その最後の日々が、ロッパにとって幸福だったか否かは、永遠の謎である。

[評者]平山周吉(雑文家)

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