人々の心をわしづかみにした玉三郎 「対立」と言われた歌右衛門について語る

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「歌右衛門さんと私が対立していたとか書かれてる方もいますけど、実はそうじゃなくて、あの時代の建前としては対立して見えただけで、本心は認めて下さっていたし、私も本当に憧れ、尊敬していました。」と、玉三郎さん。

 文化人類学者で無類の歌舞伎好きでもある船曳建夫氏は、坂東玉三郎の襲名50周年を記念した「芸術新潮」6月号の特集で、歌舞伎ファンが玉三郎を"発見"したのは1967年10月だったと振り返っている。当時『紅葉狩(もみじがり)』の主役・更科姫を差し置き、脇に控える侍女役の玉三郎に注目が集まってしまい、劇場内ではこんな騒動が起こっていた。

■学級崩壊ならぬ劇場崩壊

船曳:『紅葉狩』の時は、いわば劇場全体、観客全員の収拾がつかなくなってしまった。あれは誰だ、あれは誰だって、もう要するに学級崩壊といいますか、劇場崩壊の状態(笑)。皆さんが劇そっちのけで、劇場のルールが成り立たなくなってしまっていた。

玉三郎:実は私としては、出来が悪かった思い出しかないんです。うまく踊れなくて、父にも叱られ。腰元の着物を着て踊るということ自体、慣れておらず、特に「矢の字」という帯の結び方は、後ろが丸いかたちになりますので踊りにくいんです。

船曳:客席のことはおぼえておられない?

玉三郎:まったく忘れてます。

船曳:50年もいろんな芝居を見てきて、最初で最後の体験でした。あの10月がターニングポイントだったと思うんですね。観客が発見したのは多分あの時だと思います。それで2ヶ月後の12月の『時鳥殺(ほととぎすごろ)し』はもう満員で。

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