ヒクソン・グレイシー、幻に終わった桜庭、ヒョードルとの対戦

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 ヒクソン・グレイシーは2009年に引退を発表した。その結果、彼の現役最後の試合は、2000年5月に行なわれた船木誠勝との一戦、ということになった。

 が、みずからのメンタルコントロール術を明らかにした新刊『心との戦い方』(新潮社)で、実はその後、桜庭和志やエメリヤーエンコ・ヒョードルとの対戦が、ほぼ実現寸前まで話が進んでいたことが明らかにされた。

「コロシアム2000」で行なわれた船木誠勝との一戦に勝利した。

「コロシアム2000」での船木誠勝戦後のヒクソン。

 桜庭との対戦は、2000年の後半にPRIDEからオファーを受けたという。ホイス・グレイシーが90分にも及ぶ大熱戦の末に桜庭に敗れたのが、この年の5月1日のこと。ヒクソンは5月26日に船木を破っている。ということは、このマッチメイクは、ホイスのリベンジを果たすためのものだったに違いない。
 ところが翌年2月に、ヒクソンの長男ホクソンがニューヨークでバイクの事故で急死するというショッキングな出来事があった。ヒクソンは、とてもリングに立てるような精神状態ではなくなってしまったという。
 その後、桜庭はヴァンダレイ・シウバに敗れ、商品価値をみずから下げてしまうことになる。

 結局ヒクソンは、長男の死から立ち直るまでに、2年半の月日を要したという(その間には、前田日明や長州力との対戦のオファーもあったのだとか)。
 そして2003年の後半になって、再びリングに立つ気持ちを固めた。
 ヒクソンの心を動かすオファーがやってきたのは、2006年前半のこと。アメリカの団体からのオファーで、相手はエメリヤーエンコ・ヒョードル。2007年1月に試合は行なわれるはずだった。
 ところが、契約書にサインする直前に、ヒクソンは左足を痛めてしまった。いったん契約書にサインして前渡し金をもらい、その上でケガが完治せずに試合をキャンセルしたとしても、前渡し金を返す必要はないという契約になっていたという。だが、自分の性格上、もし前渡し金をもらってしまったら、ケガが治らなくてもリングに立ってしまうのではないか。自分の名誉は、金銭より重い……。
 最終的にヒクソンは、ケガが完治するまでサインはしない、と決断する。その結果、このイベント自体が実現しないままに終わってしまったのである。

 もし仮に、ヒクソンが桜庭と戦っていたら、あるいはヒョードルと戦っていたら……。バーリ・トゥードの歴史は変わっていたに違いない。

デイリー新潮編集部

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