陸軍作戦課長・服部卓四郎の戦後/『秘録・日本国防軍クーデター計画』

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 陸軍の代表的な課長ポストといえば、なんといっても陸軍省の軍事課長と参謀本部の作戦課長だろう。軍政を司る平時の軍事課、軍令(作戦)にかかわる戦時の作戦課。それらの課に集中された力と責任の大きさは、現今の霞が関官庁のいずれの課とも比べものにならない。大袈裟でなく日本の命運を担った。
 本書は開戦時を含め、太平洋戦争中に二度まで作戦課長を務めた服部卓四郎大佐の、主として戦後の動きに焦点を合わせたノンフィクションである。彼が作戦課長でなかったのは、陸相秘書官を務めた昭和十七年十二月からの十ヶ月間と、歩兵第六十五連隊長を務めた昭和二十年二月から終戦までの六ヶ月間だけである。だから太平洋戦争中の陸軍作戦の多くは、勝ち戦も負け戦も彼の指導のもとに行われたわけで、必ずしも賛辞ばかりでないのは当然のことだ。
 服部の戦後は昭和二十一年五月、復員待ちの中国から連隊長一人だけが帰国した時点から始まる。連隊長一人というのは通常ありえない復員で、部下らは「連隊長は偉い人じゃったから戦犯指名か」と涙を流して見送った。実際はマッカーサー戦史の編纂を急ぐGHQが、日本軍の作戦経緯を知悉する彼の早急なる帰国を命じたのだった。
 以後の服部の行動は三局面に分かたれる。一つは大陸命、大陸指、上奏控えなど陸軍資料の収集・保管と、早い時期での自国戦史の刊行。一つは米軍側戦史編纂への協力。さらには新国防軍創設のための基礎研究である。
 マッカーサー戦史の完成を急ぐ米軍は、日本側から見た戦史の完成も求め、服部は海軍軍令部作戦課長だった大前敏一ともども日本班主任となる。編集室はウイロビー率いる参謀第二部のオフィスのあった日本郵船ビルに置かれたが、服部は「米軍に協力するのは気持ちのよいものではない」と語ったと伝えられる。
 しかしこの米軍協力が一種の隠れミノとなって、服部らの資料収集も新国防軍研究も大きな成果を挙げることができた。終戦時の焼却を免れた資料をリヤカーや自転車の荷台に積んで、警官の誰何(すいか)を恐れながら右往左往する姿は、井伏鱒二あたりの小説を思わせるが、後年『大東亜戦争全史』が服部名で刊行された際、引用された諸資料に「よく残っていた」と人々は驚くことになる。
 敗戦の反省を踏まえ陸海の統合運用などを提言する新国防軍研究は、しかし吉田茂によって進められた警察予備隊から保安隊、自衛隊にいたる実際の経過によってことごとく裏切られることになる。新組織は軍隊嫌いの旧内務・警察官僚中心に作られ、旧軍人が集まると「また何かやっている」。
 クーデター計画は彼らの目に映った幻影に過ぎないようだ。

[評者]稲垣真澄(評論家)

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