百一年生きた人の芯にあるもの/『家と庭と犬とねこ』

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 児童文学者の石井桃子が亡くなったのは二〇〇八年、百一歳のときである。この本には一九四八年から二〇〇二年まで、そのときどきに書かれた暮らしにまつわるエッセイが収められている。
 雪のなかの餅つきや家のねこ、花どろぼう、大好きなさやえんどうのおみおつけ。同じ話題がべつの文章に出てくることもあり、ものの考えかたや感じかたがずっと変わらないことにびっくりする。まじめで、感受性がするどく、何かことが起きると、いたずらっ子のように心をはずませ面白がる。
〈こいつ、何で金をもうけたのかなという顔で、『いいおすまいですね』と、おせじをいわれることがある〉
 表題作の「家と庭と犬とねこ」の冒頭の一節である。石井桃子もこいつなんて言葉をつかうのかと頬がゆるんでしまう。敷地七十坪もある東京の家も、いっしょに暮らす犬もねこも、望んでもないのに転がりこんできたのは同じと淡々としている。飼い犬が魔法のように三度も脱走したいきさつをつづるエッセイでは、〈ノミとりまなこで――家のまわりを点検し〉た。ノミとりまなこって……?
 石井は終戦の年、友人と女ふたりで農業をはじめた。土地を借りた宮城県鶯沢の山村へたどりついたのが八月十一日。玉音放送を聞いても気もちに変化は起きず、鍬を入れて土をおこした。
 小さな小屋に住んでじゃがいもをつくった。畑を手伝いに来る人々がいたが、食糧難の時期がすぎると都会に戻っていった。やがて百姓仕事では食べられないことがわかってくると、石井は『ノンちゃん雲に乗る』の印税をかたに出版社から金を借り、乳牛を飼うことにする。
 組合をつくって牛乳を出荷したり、さまざまなことを試みるが借金はへらず、石井は穴埋めに東京へ出かせぎにいく。十から十二時間かけて電車で東京から村へ戻るあいだに〈五十年か、何百年か、歴史を逆行する〉感覚をあじわう。追いつき追い越せでだれもが前のめりの早回しで生きていたときに、自分の時間を守ることができていた。
 エッセイから、彼女の人生とその芯にあるものが明らかになる。父が死に、母が死に、親しいともだちが死に、戦争中、東京でひとり暮らしていたときのこと。食事のあと片づけをしながら窓から見る木々のみどりと空の青さに、亡くなった人やいま生きている人への思いを深くする場面が印象的だ。石井の目がとらえた情景の美しさが心に残る。
 石井桃子が着ている服のおさがりの着ごこちがいいというので、自分の服を新調するとき、わざわざ石井につくらせ、少しの間着てもらってから自分のものにする友人がいたそうだが、その人の気持ちがなんとなくわかる気がする。

[評者]佐久間文子(文芸ジャーナリスト)

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