「そうか、もう君はいないのか」――残された夫の孤独感、妻への万感の想い

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城山三郎『そうか、もう君はいないのか』刊行記念  【書評】静かに深く心にしみこむ、夫婦の絆/児玉 清

 最近、とみに思うことのひとつは、長年連れ添った妻に先立たれたらどうしようか、という恐怖である。できれば妻より先に、と折りにふれそのことを口にすると、いや私のほうが先よと言われ、じゃあ一緒になんてお茶を濁して苦笑しているのだが、城山三郎さんの『そうか、もう君はいないのか』というタイトルを目にしたとき、鋭い一撃ともいえる痛みが胸に響いた。

 後に残された夫の心を掬う、なんと簡潔にしてストレートな言葉だろう。最愛の伴侶を亡くした寂寥感、喪失感、孤独感とともに、亡き妻への万感の想いが凝縮されている。

 愛妻物語は、お茶の水駅近くの講演会場でのエピソードからはじまる。さて、どんな話からと考えながら演壇に立った城山さんが会場内を見渡すと、なんと二階席最前列の端に奥様の容子さんが座っているではないか。しかも、目が合った瞬間、容子さんはふざけた仕草で、その当時の人気マンガのイヤミ君の「シェー!」をしたというのだ。この一節で、容子さんがユニークで、明るくお茶目な楽しい女性であることを颯とわからせてしまうところは、実に見事だ。

 容子さんと初めて出会ったのは学生時代、名古屋のとある図書館の前である。臨時の休館日であったために城山さんが外で佇んでいると、その前に、恰も天から舞い降りた妖精か、と思わせる容子さんが現われたという。その瞬間に、この人こそ意中の人と直感した城山さんの類稀な眼力は、その後数々の作品で私たちが知ることになる人間洞察力の鋭さを彷彿させる。その後一旦は離れ離れになった二人が、やがて結婚へといたるドラマチックなプロセスは、まさに赤い糸で結ばれていたというにふさわしい。

 城山さんの筆で生き生きと立ち上がってくる容子さんの姿は実にチャーミングで可愛らしい。シロヤマサブロウというペンネームを知らず、文学界新人賞受賞の電報に「そんな人、いません」と答えて危うく受賞を逃しそうになった話も愉快で楽しい。新人賞受賞後、夏休みを一人で軽井沢にこもり、作家として立つべく懸命に書き上げた作品をあっさり「没」にされたときのエピソードは、二人の間柄を象徴していて面白い。

「二夏続けて家を空けて、収穫なしだったが、容子は、何ひとつ文句も質問も、口にしなかった。/それも、深い考えや気づかいがあってのことというより、『とにかく食べて行けて、夫も満足しているから、それでいい』といった受けとめ方であり、おかげで私は、これ以降も、アクセルを踏みこみながら、ゴーイング・マイ・ウェイを続けて行くことができる、と思った」

 感情に溺れず、感傷にも走らず、透徹した目で事実を見つめ、虚飾や嘘を嫌う筆致で次第に明らかにされる夫婦の絆は、清々しく品位があり、静かに深く諄々と心にしみこんでくる。日常生活の雑事や世俗的なことは、感謝を込めて「パイロット・フィッシュ」と名付けた容子さんにすべて任せ、思う存分理想の作家生活に埋没できた城山さんに対して、猛然と羨ましさが湧いてくる。

 安心して後方を妻に委ねて前線で懸命に戦う夫と、夫をさり気ない気配りで明るく支える妻。深く愛し合っていたことがひしひしと伝わってくる。晩年、癌とわかった容子さんをぎゅっと抱きしめ「大丈夫だ、大丈夫。おれがついてる」と「大丈夫」を連発する城山さん。他にどんな言葉があるだろうか。僕はたまらず嗚咽した。

 夫婦愛という言葉が薄れゆく現代、お金がすべてに先行する今日、熟年離婚が当たり前のことになりつつある中で、人を愛することの豊かさ、素晴らしさ、そして深い喜びを真摯に教えてくれる城山文学の最終章である。

「波」2008年2月号 掲載
(※この書評は単行本発売時に掲載された内容です)

[評者]児玉 清(こだま・きよし 俳優)

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